僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

オウム真理教とVX製造

今回のエントリーでは、オウム真理教がなぜVXを製造したのかを記します。

 

VXは、イギリスで合成された物質で、その毒性は人類がつくった化学物質の中で最も高いとされており、温帯では一週間効果が残留すると言われています。

アメリカ陸軍は、イギリスに核兵器の情報を与えるのと引き換えに、この物質の製造に関する知識を得たとのことです。

アメリカの陸軍の機密事項なので(当たり前)オウムの武装化の一環で製造をしようにも中々難しいものがありました。

なお、中国人民解放軍もVXについては勉強をしているとのことです。

 

 

製造準備が始まったのは1994年7月です。土谷正実さんが上司でもあった遠藤誠一さんから準備を指示されましたが、ノウハウをしらず、文献を探したが見つかりませんでした。

そんなときにアンソニー・トゥ先生のこの論文が出されます。

「猛毒「サリン」とその類似体--神経ガスの構造と毒性」(『現代化学』1994年9月号)

この論文の簡略化した化学式にヒントを得て、土谷正実さんはVXの製造に成功してしまいました。

トゥ先生は悪用を防ぐために式を簡略化したのですが・・・。

この雑誌が発行されたのが1994年8月15日だったので、製造に着手したのは9月以降といいます。

なぜVXを製造するようになったかというもう一つの理由が、松本サリン事件後、現場の土壌でサリンが検出されたためでした。

松本サリン事件をきっかけに、オウム真理教サリンに代わる毒物の製造を何としてもしなければならなくなりました。

アンソニー・トゥ先生の論文は日本の読者、特に警察関係者にも重宝されましたが、一方でオウム真理教が今度はVXの製造に成功するきっかけをも与えてしまったとも言えます。

中川智正さんは、アンソニー・トゥ先生の論文がなくとも、土谷正実さんならばあと1、2か月あれば製造に成功しただろうとのことです。

(アンソニー・トゥ先生が自分の論文が殺人に悪用されたことでいたたまれない気持ちであったから、中川さんはそれをフォローするつもりで、「土谷ならあと少しあれば自力で作れた」と言ったのではないでしょうか。)

 

サリン事件: 科学者の目でテロの真相に迫る

サリン事件: 科学者の目でテロの真相に迫る

  • 作者:AnthonyT. Tu
  • 発売日: 2014/01/30
  • メディア: 単行本
 

 VXの合成を知っていたのは、土谷正実、村井秀夫、遠藤誠一麻原彰晃、そして

具体的ではないけれど合成している事実を知っていたのが中川智正とのことです。

合成作業は非常に危険であるため立入禁止とされ、合成作業をさせられた信徒も、何を作っているのかは知らされてはいなかったとのことです。

  • VX製造と教団内人間関係

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 私も今まで気づいていなかったのですが、中川智正さんは、サリンは製造したけど、

VXの製造はしていなかったということです。

一時期はサリン製造の責任者ともなっていたこともありましたが、1994年4月には

製造の立場からは外されています。これは遠藤誠一さんが、中川さんに「出て行ってほしい」といったからです。

遠藤誠一さんと中川智正さんは、ステージは遠藤さんが上で、中川さんからみると、遠藤さんは「教団から大切にされている人」ですが、嫌うことはなかったのでした。

中川さんが外されたのは、遠藤誠一さんが能力を嫉妬していたとされる土谷正実とも仲がよかったため、遠藤さんは自分の立場を強くするためだとされています。

中川さんがVXの製造に関わっていないにも関わらず、教団の起こした事件すべてで起訴されているのは、製造に関わらなかったかわりに、実行犯への具体的指示と医療役として関与したからです。

教団は、サリン製造と使用を分業化することで、責任を分散化させています。

サリンの危険性を知っている者は、すでに殺人をしている幹部を除き、命令に従順な信徒が実行役に選ばれていました。

土谷正実さんはサリン、VXなどの毒物の製造させたけれど、実行犯に選ばれなかったのは、犯罪行為の結果には耐えられないと教祖から思われていたからではないかと言われています。

土谷正実さんは、教祖からサリンなど完成させるたびに喜んでもらえること、ステージが上で、生物兵器製造に失敗した遠藤さんよりも自分の能力を教祖に認めてほしい一心で、何日も寝ないで与えられた研究棟に籠りました。

そんな姿を知った中川智正さんは、VX製造は危険すぎるし、原材料の入手が困難であると教祖に進言したのです。

一時、教祖はVXの製造に難色を示したのですが、今度は遠藤さんが「少量ならできますよ」と進言したため、結局製造が続けられたのでした。

 

未解決事件 オウム真理教秘録

未解決事件 オウム真理教秘録

 

 

 

 

中川死刑囚、金正男暗殺にVXが使われたと指摘

 2017年2月13日、金正男氏がマレーシアで殺害されたとのニュースがありました。

 

www.bbc.com

北朝鮮の故金正日総書記の長男で、金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏が13日午前、マレーシアの首都クアラルンプールの国際空港で殺害された。女性が後ろから「液体を含んだ布」を持って近づき、正男氏の顔を覆ったという地元報道もあり、毒殺の可能性が指摘されている。

韓国政府は、殺害されたのが金正男氏なのは確実だとの見方を表明。黄教安首相(大統領権限代行)は、北朝鮮の犯行と確認された場合、「金正恩政権の残虐性と人倫にもとる性質を示すものだ」と述べた。

北朝鮮は正男氏の死去についてコメントしていないが、駐マレーシアの大使館関係者が、正男氏の遺体が運ばれたクアラルンプールの病院を次々と訪れている。

匿名の米政府筋は、北朝鮮工作員に毒殺されたと受け止めていると述べている。

このニュースが出て約10日後、確定死刑囚・中川智正さんが、金正男の暗殺にVXが使われた可能性を東京拘置所から指摘したという報道が出ました。

私は確か、2ちゃんねるのこのようなスレッドを見て、苦笑したのを覚えています。

http://dechisoku.com/article/464385106.html

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説得力ある!

さすがだわ!と思いました。

 

しかし、なぜ確定死刑囚が拘置所から自分の見解を指摘できたのか?というのが皆不思議に思っていたところだと思います。

中川智正さんは、金正男の死因の記事を読んだだけで、殺害に使われた毒物がVXだと思い、自分の弁護士を介して、特別に交流の許されている毒物学者・アンソニー・トゥ博士にメールを送ったのでした。

このメール内容が、アンソニー・トゥ博士とも交流のある毎日新聞の岸達也氏にも共有されて、2月25日の朝刊と夕刊で反響が大きい記事となったのでした。

 

では、中川さんはなぜ、VXが使われたと考えたのでしょうか。

そもそも、VXとはどのような物質なのでしょうか!

麻原彰晃(本名:松本智津夫)が

VXは最強の化学兵器だ!教団はこれで闘っている!」と言ったほどの

最強の化学兵器です。

 

 

 アンソニー・トゥ博士が受け取ったメールの原文を以下に掲載します。

先日、金正男氏がマレーシアで殺害され、VXが使用されたのではないか、という報道がありました。

正確な情報が入手できませんが、報道されている金氏の症状からしてVXであっても矛盾しないと思います。

金氏は目の痛みを訴えているようで、

目にVXを付着させたのであれば、痛みは当然ですし、

呼吸が早く症状が出て空港内で亡くなってもおかしくないと思います。

単に皮膚につけただけでは、教団がおこなった事件の時は発生までに1~2時間はかかっていました。

また、金氏は口から泡を吹いていたそうです。

VXは気道の分泌物を増加させますので、これもVXの症状と考えて矛盾はありません。

VXは猛毒と言われますが、サリンと比較すると気化しないので、取り扱いは容易です。

私がVXを取り扱う際には、長袖の普通の服に手袋をつけただけでした。

ですので、金氏の件での実行犯が自分の手袋に薬液を塗ってそれを金氏に付着させたという報道も、薬液がVXであればおかしくありません。

これがサリンであれば実行犯も確実に中毒します。

VXは肝臓で代謝されるので、マレーシアの当局が血液や尿、顔面への付着物のサンプルのほか、肝臓のサンプルを残していれば良いのですが。

脳にのこっていれば神経細胞に結合したVXを直接検出できるかもしれません。

地下鉄サリン事件の被害者の脳からもサリンが検出されました。

 

 アンソニー・トゥ『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』2018年。216頁より

 中川智正さんも、自分のメールが日本中にも、海外にも反響があったことを知って喜んでいたそうです。それで2017年4月にトゥ博士が面会した際

「これからもお役に立てる文を書きたいけれど、どういうところを強調したらよいか」

と相談されました。トゥ先生は

「化学的なことより、人間に対するVXの症状、その治療法などについて書いた方が役にたつ」とアドバイスしたとのことでした。

中川智正さんは、VXの製造には関与していません。

しかし、VX製造に関与している信徒が中毒になったときや、オウム真理教のVX殺害事件のすべてに医療役として関与しています。

VXを知り、VXを実際扱ったことのある人物なのでした。

その人物が世界の役に立ちたいと申し出たのでした。しかも確定死刑囚の立場で。

それで後日マレーシア政府は注意をして、国連を通じて中川さんに問い合わせがあったとのことです。

おそらくその文章が、『ジャム・セッション』第12号 2018年1月発行掲載の

「マレーシアでの神経剤VXによる金正男氏の殺害について」

2017年7月10日 中川智正 元オウム真理教出家者 

と掲載されている文章になると思います。

こちらの日本語文は、『ジャム・セッション』のサイトが消されてしまったために

現在見ることができないので、スクリーンショットを掲載します。

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こちらの英文版はまだネット上にあります。

日付がジャム・セッション掲載のと同一なので同じことが書いてあるのだとみてよいと思います。
この文章を基に、さらに中川智正さんは、気力を振り絞るように英語と日本語の化学論文執筆をしていきます。

この頃、高橋克也さんの裁判も終わりに近づいていたことでもあり(2016年9月7日に高裁で一審の無期懲役が支持され、2018年1月18日には最高裁で判決が確定することとなる)、中川智正さんとすれば、自身の死刑執行が近づいてきていることを意識しながらの、論文執筆だったと思います。

映画「わたしは金正男を殺していない」を観ました。

先日

本当に久しぶりに

映画を観に行きました。

 

koroshitenai.com

普段、友人から映画を誘われても、断ることが多い私です。

長い時間映画を観て疲れて寝てしまうからです。

そんな私が、わざわざ大森の映画館まで足を運んだのは、「映画のどこかに、中川智正さんの研究成果が盛り込まれている可能性」を自分の目で確かめたかったからです。

 

結果としては、映画、パンフレットともに、中川智正さんの研究成果については一つも触れていませんでした。

それでも私は、映画を観て良かったと思います。

中川智正さんが死刑執行直前にトゥ先生宛に書いた手紙や、確定死刑囚になっても化学研究をしていた理由の一端が理解できた気がしたのです。

 私自身が中川智正さんに注目するようになったのは、獄中から死刑囚にも関わらずVXに関する化学論文を英語で発表できる能力がすごいと思ったのがきっかけでした。

 医者として挫折し、犯罪者として確定死刑囚となりながら、化学者として世のために毒物に関する論文を出して最期を飾れたなんてよい人生ではないかと思っていたのでした。

今回、映画をみて、改めてオウム真理教のVX事件を調べ直してみると、

中川さんとしては、研究成果を誇りたかったという気持ちなどなく、教団や自分がおこした罪を償う一環として、論文を出したのではないかと思うようになりました。

自分たちが犯したことを真似たテロが世界から根絶されることを心から祈る気持ちで書いたのではないかと。

いささか中川さんを褒めすぎでしょうか。

これから数回のエントリーを通して、中川智正さんがなぜ確定死刑囚になってからも化学研究を続けていたのか、について、映画の内容、オウム真理教の起こしたVX殺人事件に触れながら考えてみたいと思います。

 

私は、最初この映画では、他の女優さんが大爆笑(LOL)のTシャツ着て出てくるのかな?とか思っていたのですが、実行犯女性2人が出てきたのに驚きました。

アメリカの映画監督やプロデューサーが、実行犯(インドネシア人、ベトナム人の二人の女性)のインタビューに成功し、彼女ら二人は絞首刑になるところだったが、国際的取引によって釈放され、その後も彼女ら二人の国境を超えた友情が続いていることや、一方で、彼女らに対してSNSで批判的な書き込みをしている者もいることが伝えられており、非常に現代的な暗殺者映画だったと感じました。

今回の金正男暗殺事件の実行犯は、金正男を知らない他国籍の若い女性2人でしたが、

スパイ行為や暗殺者と判定されたなら、処刑されるのが当たり前ではないか、と思っていました。現在でもYoutubeで過去にスパイ行為や暗殺者とされた者の処刑シーンを見ることができるぐらい、映画の世界とは別に、国際社会的には冷酷な現実があるのではないかと思いました。

スパイ行為ではないけど、中国では薬物持ち込みで逮捕されたらば、他国人であっても処刑しています。日本人でも麻薬持ち込みの片棒を担がされた者は中国によって処刑されています。日本弁護士連合会がどんなに問題を指摘しても、それが変えられることは

ありませんでしたし、これからもないでしょう。

アヘン戦争で敗戦した痛い歴史を中国は持っているから。

 

さて、映画の内容に戻ります。

映画を観ている時に、私はパンフレットにあるアメリカ人監督とプロデューサーの意図とは別に、「中川智正さんの研究成果がどこに現れるか」という目で見ていました。

私は一応、中川智正さんの論文は読んではいます。

中川智正さんの研究成果である、VXの前駆体を別々の場所で作り、それを金正男の顔でVXが合成されてしまったのではないかというものをマレーシア政府は知っている前提で話が進んでいるように思えました。

もっとも私の化学知識はほぼ無いに等しいですが・・・。

(私立の自称進学校育ちで、高2以降理科を受けなくて良かった。今ではあり得ないことですが、私の時はなぜか理科を一切やらなくても卒業させてもらったのでした。理科が大嫌いで理科を避けてきました。論文読もうにも読めないので、やはり基礎知識は欲しいところでした。若い人には基礎学力をつける機会を大切にしてほしいです。私のようにならないよう・・・)

だからパンフレットに監督たちが書いていたように「口紅に毒が入っていたとか、ダーツの矢や銃を使ったとかいう憶測があった」らしいけど、そのような話があったことさえも知りませんでした。

ともあれ、マレーシアとしては、東南アジアのハブ空港でもあるクアラルンプール空港で白昼堂々暗殺事件が発生したことが国辱もので、何としても実行犯を処分しなければというのが第一にあったと思いました。

 実行犯の女性2人はなぜ金正男氏殺害に関与してしまったのでしょうか。

 ベトナム出身の女性は女優を目指していて、インドネシア出身の女性は母国で貧困層であるためマレーシアに出稼ぎに来て、性風俗をしていたということです。

 「日本のテレビ番組用のイタズラ動画を撮影するために出演してほしい」とスカウトする男が彼女らの前に現れます。彼女らは別々にスカウトされ、動画に出るための訓練を受け、暗殺の実行犯となってしまうのでした。

 そのイタズラ動画に出るための訓練を経て、彼女ら二人は金正男氏暗殺の実行犯となります。金正男が暗殺されたあと、彼女らをスカウトした北朝鮮工作員ジャカルタ・ドバイを経由して平壌に帰国してしまいます。

その後は、逮捕された実行犯女性2人の拘置所生活と裁判シーンのほか、北朝鮮をめぐる国際情勢の説明が、アメリカの視点から分かりやすく説明されます。

逮捕されるまでは接点のなかった実行犯女性2人の友情が描かれ、先に釈放されたインドネシア女性がいなくなってからのベトナム女性の精神的苦痛を想像すると、苦しくなりました。

今でも北朝鮮工作員たちの実態はわからずじまいです。

どんなにかマレーシアとしては彼女らを処刑にして見せしめにしたかったかと思います。そこに国際関係上の私たちには見えないところでの取引がされて、たまたま二人とも結果として釈放されたからこそ、映画に出来たのではないか(いや、どちらか死刑になったにしてもアメリカならば映画においてはヒューマニズムに訴える話にして上映するかもしれない)。

そんなことで、実行犯女性2人でさえ自分たちが何をどうやって使って、金正男氏を殺したのかという具体的な部分があいまいなまま終わりました。北朝鮮への捜査など簡単にできるものではないのだから・・・。

だからこそなんですが、今一度、オウム真理教のVX事件を振り返ろうと、帰り道に

大森駅内ビルにいたペコちゃんをみて思いました。

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なお、この映画を観て、北朝鮮問題などを深く理解したい方のために。

こちらの書籍が役に立つと思いました。

この書籍は中川智正さんが獄中で論文を書く際に参考にしてもいます。

中川さんの成果も盛り込まれています。

 

 

あと、DVD化もされるようです。

多分、毎日新聞の上記書籍のページを繰りながら映画を観ると、深く理解できた気分に

なると思います。

 

 

 

 

 

「被害者の親」から「加害者の親」へー支える覚悟、固めた母

中川智正さんの話をする上で避けて通れないのは、

お母様の存在です。

お母様については当時から新聞記者の取材にも応じられていて、息子があれだけの事件に関与したのに、逃げも隠れもしないで偉い方だと感じていました。

もし私が中川さんぐらいの犯罪を犯したならば、私の親は多分受け止めきれないだろうな・・・と思いながら、中川さんのお母様に関する記事を読んでいました。

お母様が留置所に中川さんに会いに行ったのは、逮捕後の5日目、5月22日のことでした。その時の新聞記事が、『毎日新聞』1995年10月24日夕刊にあります。

「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながらーーー。

接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
瞬間目が合い、涙があふれた。
息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
互いに言葉は出ない。
「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
と母は思った。
息子はよほど照れくさかったのか
「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
一息ついて話しだした。
遠いところをありがとう。
僕がこうなったことを
世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
これは全部、僕のせいなんだ

母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
母は優しく言った。
親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
オウムに切られてたまるか・・・。
そう思い詰めていたと、母は振り返る。
「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
息子も応じた。
息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
分厚い強化ガラスに遮られていても、
息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
取り調べの捜査員からも
「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
と聞いた。
だが、面会を重ねる中で母は息子の
「妙に冷静な態度」
が気になっている。
麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
母は決して気が休まらない。
「多くの人の命を奪った。
麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
心から謝罪して・・・」
小柄な母は、小さな肩を震わせる。
次第に声は細った。
逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
(社会部・東海林智)

中川さんのお母様を語る上で大切なことは、息子がオウム真理教に出家したのを放置せずに、当時はインターネットもない中で、永岡弘行氏や坂本堤弁護士などで結成された

オウム真理教被害者の会」を見つけて参加していた方だということです。

「被害者親」の立場でオウム真理教がどんな宗教なのか勉強されていたので、「マインド・コントロール」という言葉を知っているし、他の家族の話から、多額のお布施を取られたという話を聞いて、中川さん自身は多額のお布施はしていないことから、

息子の医学知識や柔道が悪用されるのではないか」といち早く恐れていた方です。

被害者の会の親の中で、特に中川さんご両親など、子供が医師免許を持ってオウム真理教に出家してしまった親たちは、子供の医師免許剥奪まで求める活動をしたけれど、まったく相手にされなかったのでした。

(「朝日新聞」2000年2月4日)

おそらく親ならば、子供が勉強頑張った結果医学部に入り、医者となったならば、その子を誇りに思うだろう。中川さんの両親より以上に、無茶ぶりで勉強させてまで医学部にいれようとする親は現在でも多いと思います。

医学部専門の予備校が繁盛していることからも。

それぐらい、医者になるということは本人も努力するけれど、親も努力する部分もあるだろうものらしいです。精神的にも、金銭的にも。

その医師資格をはく奪してもいいとまで陳情する被害者の会の親たちを、当時の東京都や警察は「話は聞くが受け止めない」という姿勢だったようです。そうして、6年後被害者の会の方々の願いもむなしく、一番最悪な形で、医学知識、柔道すべてが悪用されたのが、中川さんだったのでした。

中川さんのお母様としては、最初は息子がオウム真理教に出家したことを隠しておきたかったのだと思います。しかし息子がいきなり真理党の一員として国政選挙に出るわで隠し通せなくなり、被害者親から加害者親という立場になって、何度も死にたい気持ちになられたことだと思いますが、オウム真理教の怖さと息子のような人物が増えて欲しくない一心で、「加害者親」としても報道に対応されました。

誰にもできることではないと思います。

加害者親として、お母様は冷静だったと思います。

中川さんの「妙に冷静な態度」を見抜いていたのだから。

毎日新聞」1995年9月10日には

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中川さんが出家する前にお母様とステーキを食べたことから書かれている記事がありました。中川さんが出家してすぐに、被害者の親が他にもいることを突き止めて、そこと繋がり、坂本弁護士失踪事件の時には署名活動までしていたお母様。中々ここまでの行動力を発揮できるものではないと思います。 

なお、最後に端本悟さんとお母様の話もあります。端本さんのご両親もまた被害者の会に加わり、息子を奪回させようと頑張ったのですが、「逮捕されて嬉しかった」というほどだったのが、悲しいです。

端本悟さんもまた、坂本弁護士事件と松本サリン事件に関与したため、オウム真理教内での位は下だったのに、死刑囚になってしまったのだから。

ただ、端本悟さんの方がまだ救いがあったのではないかと思ったのは、「端本被告は、教団と無関係の弁護士を選び、教団との接点はほとんどなくなった」とあるように、端本さん自身は教団内でも戒律を破ったりするタイプだったからです。

端本さんや、その周辺の信徒は出家信徒とはいえ、教祖の近くにいる中川さんに対しては「教祖に迎合する」「ボンボン」とあまり良い目で見ていないことも注目点だと思います。

中川さんのお母様が設立当初から入会していた「オウム真理教被害者の会」は、

中川さんのように、加害者として公判を受ける者も会員の子供の間で出てきたことから

実情にそぐわないということで、「オウム真理教家族の会」として、今も存在しています。

なお、加害者家族の苦悩を知る一冊がこちらです。

 

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

  • 作者:鈴木 伸元
  • 発売日: 2010/11/27
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

 

 

 

逮捕時の中川さん

中川智正さんが逮捕されたのは、1995年5月17日でした。

その前日に教祖が逮捕されています。

当時の新聞には、上九一色村で病気の教祖に付き添っていたなどと書かれていましたが、実際は教祖の命令により、テロリストとして都内のアジトを転々とした末、警察に身柄を拘束されたのでした。

www.jiji.com

その時の様子は「産経新聞」1995年6月7日東京夕刊に次のようにあります。

 5月17日午後10時、東京都杉並区永福二丁目の住宅地の路上で、周囲に不自然な目配りをする男が、警戒中の警視庁高井戸署の地域課員の目に留まった。

異様な髪型に丸みを帯びた体。風ぼうは違うが、紛れもなく地下鉄事件の手配容疑者だった。

「中川だな」。捜査員が職務質問する。だが男は黙秘。任意同行を求め、身体を捜索すると不自然な髪はかつらで、体重も80キロほどに太っていたという。

「罪の意識もなく、逃亡を重ねるつもりだったのだろう」(捜査員)

前日の麻原被告らに続いて、中川容疑者は約一時間後、地下鉄事件の殺人容疑などで逮捕された。 

 カツラを被って変装し?(どのようなカツラだったかは不明だが興味はある)、周囲に不自然な目配りしながら路上を歩く男・・・。

この2日前、共にテロ行動をしていた井上嘉浩さんと豊田亨さんらが逮捕されてしまい、八王子アジトにはいられなくなったため、永福アジトに転がり込んできたらしい中川さんは、自身の逮捕も間近だと予測しつつ、一方で「テロを起こせ」という教祖の言葉に忠実に動いていたようです。今度はその教祖までもが逮捕されてしまった。

「もう逮捕してくれ。どうせ自分は死刑だから」という思いでアジトを出ていったのだろうなと思います。

わざと見つかりやすいようにカツラとか被っていたのだろうなと。

 オウム真理教事件の大半に関与していた中川さんですが、その中川さんが新聞に容疑者として登場したのは5月12日。信徒の拉致監禁の容疑者としてでした。

扱いも小さかったはずです。

フライデーのオウム関係者関係を取り上げた雑誌にも登場していませんでした。

6月7日の段階では、取り調べにおいて、地下鉄サリン事件時のサリン詰めを認め、仮谷さん拉致事件の関与も認めていたとのこと。

さらに、『週刊現代』37(42) 1995年11月号には

取調官の言葉として、

「中川は取調の間よく泣きましたね。犯罪を犯したことを本当に悔いていた」

とか、オウム真理教についても

「あれは狂団ですね」

「なぜ気づかなかったのか、自分が情けない」

「私は死刑ですね」

などと答えていたと書かれています。

当時の私はそんな雑誌記事を多分立ち読みして、サリン事件も犯人が自白しているのだから裁判も早期に終結するだろうと思っていました。

それが、中川さんの裁判(一審)だけで、2003年までかかっていたとは・・・。

私は中川さんが死刑執行されてから初めて知りました。

 

「医師らしい医師」とは?

中川智正さんがオウム真理教に傾倒するようになったきっかけは

何だったのでしょうか。

「神秘体験」が原因だと書かれて、オウム真理教に入信する人に多く共通するような

体験があることを記されて、病院を退職して出家したのだと簡単に書かれてしまうようです。

 私は、そこがどうしても納得できていません。

 神秘体験を否定はしません。

 その背景にあったストレスがどんなのだったかと思いめぐらせています。

 私自身も学校卒業後に苦しんだのは、仕事上のストレスだったからです。

 結局私は、「適応障害」と診断されてその仕事から「逃げ」ました。

そのことで、今も何かにつけて履歴書を出すたびに「何で退職されたのですか」と

突っ込まれて傷ついています。

 

「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」の歌詞通り、

学校で学んだことを卒業後の世界で活かしてその分野で名をそこそこあげて、自分の存在意義を感じられるよう学業・仕事に励めた人ならば、気にならない部分だと思います。

 研修医の途中で「突然の失踪」(毎日新聞」1995年9月10日朝刊)で消えるように退職した中川さんは、私より以上に苦しかったのではないかと思います。

中川さんは医学部の6回生になるまでは、宗教に傾倒する要素はなかったようです。

高校時代に阿含宗に入信したことがあるとはいえ、大学生活が充実していて遊びに、ボランティアに、恋愛に、部活に精を出していて充実していたのだから。

その生活が一転、医師になることに向けてみると・・・。

医学部学生としては、成績が悪いため何回も追試を受けてようやく留年を回避して6回生まで進級した中川さんを待ち受けていたのは、医師国家試験の勉強や、最終学年として迎える実習を通して、「本当に自分には医師としてやっていけるのだろうか」という不安ではなかったでしょうか。

ここで医師の道を諦めたらどうなるのか?

大学名:「京都府立医科大学」という医学部だけの単科大学では、他大に編入するには

困難だったと思います。医学部に不向きであれば、総合大学ならば他学部に転部する道もあっただろうに・・・。

中川さんは、「自分には医師向いてないかも」と思ったとしても、それを「初志貫徹」と心に押し込めて頑張って勉強をしていました。どうしても疲れ切って、なんとなく足が向いてしまった先が、オウム真理教だったのでした。

このあたりは、藤田庄市氏『宗教事件の内側ー精神を呪縛される人々』2008

 

宗教事件の内側―精神を呪縛される人びと

宗教事件の内側―精神を呪縛される人びと

  • 作者:藤田 庄市
  • 発売日: 2008/10/30
  • メディア: 単行本
 

 

に詳しいです。

特に神秘体験については詳細です。

 ただこの本を読んで不足を感じたのは、当時の中川さんが抱えていただろう精神的ストレスと、酷使される研修医として壊れた可能性が記されていないことです。

 医師国家試験に合格した直後に、中川さんは幼馴染の友人に「空中浮揚」を見せています。泣きながら異常な体験を語っている姿を見たその友人は、「毀れてしまったのではないか」と思い、「いいからやめてくれ」と中川さんの肩を押さえつけるほどだったとは書いてはあります。

 このように毀れた状態のまま、中川さんは研修医として大阪鉄道病院に赴任します。

この大阪鉄道病院勤務時代については、1996年10月15日林郁夫第六回公判の弁護側証人として呼ばれた時に語っています。

このあたりの部分は佐木隆三『慟哭 小説・林郁夫裁判』講談社文庫 初版は2004年に

詳しいです。

 

慟哭 小説・林郁夫裁判 (講談社文庫)

慟哭 小説・林郁夫裁判 (講談社文庫)

 

 

大阪鉄道病院での「専門は消化器内科だった。始めに勉強したのは、胃カメラ、超音波、大腸バリウム透視で入院患者は20人も30人も担当した。大病院では、若い医師が「戦力」だから。」

「患者を診ていると、患者と同じ状態になる。精神的にも肉体的にも、1989年5月、とうとう手術室で倒れ、その時の症状は、名医と言われる人でも診断がつかず、しばらく休職したあと、病院をやめてしまった」

と当時は自分の公判では黙秘をしていた中川さんですが、林郁夫裁判の証人として出廷し、自分の研修医時代のことを語っています。

 

消化器内科については、Twitter上で中川智正さんの後輩の方が次のように教えてくれました。

 

 

 

 

 週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
と書かれています。

 

確かに、入院患者をいきなり20人から30人担当することになっているにも関わらず、特定の患者さんと一時間以上も話し込むとは・・・。時間がいくらあってもたりなかったのではと、当時の中川さんを心配してしまいます。

 

医学生時代に優秀でもなかった中川さんは、せめて患者さんとともにありたいからと

側にいる患者さん一人ひとりに寄り添おうとしていたのでした。自分の大切な勉強時間も削って。

それが、上司には「集中力を欠いている。仕事も勉強もダメな研修医が来た」と評価されても仕方がない状態だったと思います。

そんな中であがいていたのですが、残されている言葉が、研修医生活の現実的なものではなく、神秘体験の話になってしまっているのが、残念でなりません。

その背景にある、研修医生活の激務こそ語ってほしかったし、語ってもらえれば、これから医師としてやっていこうとしている人たちに役に立ったのではないかと思っています。先ほどの中川さんの後輩である @SecretaSecreto 氏のTweetを引用。

 

 

 中川さん、なぜあなたは、研修医生活の激務を神秘体験でしか語ってくれなかったのですか?精神的に無理だったのでしょうか?死刑になるまでにそのあたりも整理して言語化していただくことは難しかったのでしょうか・・・。

 

一方で、中川智正さんが逮捕された直後の新聞記事

産経新聞」1995年6月7日 東京夕刊より

「中川容疑者、なぜ凶悪犯罪に手を染めた/才能を惜しむ元同僚ら」には

「本当に医者らしい医者だったが・・・」かつての上司は、こういって青年医師の才能を惜しむ。地下鉄サリン事件で七日午後にも起訴されるオウム真理教法皇内庁長官」の中川智正容疑者(32)・・・(中略)・・・

教団代表の麻原彰晃容疑者(40)との出会いで人生を踏み外し、凶悪犯罪に手を染めたが、単なる「ボタンの掛け違い」なのか、知性で隠し続けた素顔なのだろうか

 医者らしい医者って何なのでしょうか。

中川さんは研修医を1年半で脱落し、オウム真理教が怪しいことも分かった上で出家するほど絶望に追い詰められていたのです。それをこんな言い方で、「医者らしい医者だったが」で惜しむポーズをとるのが、医者の中の世界なのですか?

中川さんは凶悪犯罪を犯して逮捕されたから大きく取り上げられたけど、

研修医時代に仕事についていけなくて医師を静かに辞めて行った人たち、過労死した人たちの問題に関しても「終わったこと」としてスルーし続ける医師の世界の実態に

悲しみを覚えました。

 「ボタンの掛け違い」でも「知性で隠し続けた素顔」でもない

 研修医の激務により、自分を失ってしまった中川さんには、麻原彰晃という人に世話になるしかないという選択しかなかったのです。絶望から出家したのです。

 

確かにオウム真理教でも医師を必要としていたので、神秘体験を持つ医学部卒の中川さんは教団としても欲しかったのでしょう。

研修医時代のことを、神秘体験でしか語れていないまま死刑になってしまった中川さんの存在を、せめて逮捕当時でも取り上げて、労働環境や研修内容の見直しのきっかけにでもしてくれていたら、関西方面の大病院の過酷な労働環境も少しは改善に向かったのかもしれないことが、改めて悔やまれます。

 

中川さんは「神童」だったのか?

中川智正さんと言えば、

これまでの学歴から(国立大附属幼稚園から中学を経て地元一の進学校入学、その後

医学部入学)、実に簡単に「天才」「秀才」、果ては「神童」と称されているようです。

神童については、この新聞記事だけだと思います・・・

https://www.sankei.com/west/amp/180706/wst1807060040-a.html

確かに、医学部に入学できる学力の人と中々お近づきになる機会のない私からすると、

中川さんは「天才」「秀才」「神童」とタグ付けしたくはなります。

オウム事件の被告の中で、特に高学歴のひとは、まず学歴を記されて、犯罪内容を書かれて、「このような人がなぜ(盲学校卒の)麻原に騙された?」と書かれてしまうことが多いと思います。

 

実際はどうだったのでしょうか・・・。

 

「読売新聞」1995年5月24日夕刊

・友達は多かったが目立たなかった。授業中発言もすることなく、リーダーシップとることもなかった。成績はずっと中の上で、卒業直前の期末試験で学年三番だった

(中学時代の同級生)

・英訳は完璧で常にトップだった。(高校時代に通った英語塾の友人)

・人当たりがよく、人望があった。大学寮の彼の部屋には、いつも友人が集まって酒を飲んでいた。(医大の同級生)

 

週刊文春』(1995/8/17、24の江川紹子さん記事)

オバQの口真似をやって笑わせていた。
山陽本線旭川を渡る鉄橋の下に友達と土曜午前2時に酒もって集合、朝まで飲み明かす(高校生は飲酒ダメなんじゃ?)

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岡山城旭川。中川さんたちが飲み会していたのはここより下流だろう)

・飲みながらハーモニカを吹いていた
・カブトムシやカナブンを観察するのが好き

・志望大学を岡大医学部か京都府医大にするか迷った時に占いの結果京都府医大にした。
・友達と酒の飲みすぎ遊びすぎのため成績が悪かった。
→学長から呼び出しされたり、留年を乗り切ったことをネタに変な自慢をしていた

 

この文春記事から読むに、中川さんという人は学力はかなりあったけれど、

それ以上にキャラクターが面白い方だと思いました。

 

志望大学を「占いの結果で」京都府立医科大学に決めたことや、

医大で成績が悪く、学長から直々に呼び出されて注意を受けながら、スレスレで留年を乗り切ったネタを自慢に変えていたあたり。

何とも面白い方だと思います。

「神童」「秀才」などと割り切ってしまうのはもったいないぐらいの人だったと思います。

 

高校入試前、大学入試前など「やらなきゃならない」時には猛烈に勉強して

なんとか切り抜けて結果(県内一の進学校合格と、医学部合格)を出す一方で、

学校などで皆とワイワイやることも好きで、文化祭準備など頼まれなくても頑張って徹夜してしまうタイプ。

紋切り型に「秀才」「神童」と断ずるにはあまりにもったいない人物だと思います。

 

中川さん本人は、「勉強は追い込まれてからやれば何とかなる」と思っていたように

私は思います。

医学部卒業、医師国家試験までは、最後は騙し騙しだったかもしれないけど乗り切って来られた。

それがどうにもならなくなってしまって、限界状況をついに迎えてしまったのが、

大阪鉄道病院での研修医時代ではなかったのではないでしょうか。