僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

プロレス中継なみに騒がれた初公判

 中川さんの初公判は、当時を思い出すと 裁判傍聴希望者が4158人と、「ロッキード裁判」田中角栄元首相の判決時を超えるほど世間の関心が高かったと 思います。

 私は当時を思い出すと、中川智正さんの裁判というよりも、その二日後に開かれる予定だった 麻原裁判がどんなになるだろうか、当時、そのキャラクターが強烈であるがゆえ、マスコミのおもちゃにされている 弁護士が何をやらかすだろうか、そちらに目を向けていました。他の人たちもそうだったと思います。

 

中川智正初公判は、教祖の裁判を前に、その露払いな役割だったのだと思います。

どこの新聞社も、中川智正初公判について大きく紙面を割いていました。

当時の私もそうですが、その紙面を「精読」するよりも、

中川さんが「地下鉄サリン事件の犯人」である事実と、

 加害者親となってしまったご両親(とくに母親)の談話にばかり目が言ってしまっていました。

(「毎日新聞」ではお母様の談話を丁寧に載せていたのは、前のエントリーの通り。 

「被害者の親」から「加害者の親」へー支える覚悟、固めた母 - 僕は二つの世界に住んでいる

 

「息子が多くの方々の貴い命を奪い、計り知れない悲しみと苦しみをおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。 智正が知っている限り、真実を語り、罪を償ってもらいたいという気持ちです」(『読売新聞』1995年10月24日夕) という、ご両親が弁護人がを通して談話を公表されていたのを新聞記事の端にみつけて、

(ご両親が)「大変だなあ・・・」と感じていたことを思い出します。

加害者の親だけど、きちんとマスコミ対応をしている きちんとされた家庭であることを精一杯アピールしている姿勢が、痛々しかったです。

加害者の家族となってしまったならば、家族全員がマスコミをシャットアウトし、引きこもるのが普通だと思っていたからです。

 

当時の中川さんは、ご自身の初公判の時の様子を以下のように書いています。
『ジャム・セッション』第5号 2014年7月 のエッセイより
 
「初公判の朝、私は浅草署の一階にあるガレージに下りて、そこで車に乗り込みました。
(中略)署の周囲を取り巻くように群衆がいるのが見えました。
百人は超えていたと思います。
手前には報道陣がカメラを持って陣取り、その向こうには店番や台所仕事からちょっと抜け出してきたようなおじさんやおばさんが沢山いました。
(中略)
上空にはヘリコプターが何台か飛び、
私の乗った車にはテレビ朝日の放送車が並走しました。
アナウンサーがマイクを持ち、プロレスを中継してるのかと思うような表情で私の方を見て何か喋ってます。
何を言っているのかは聞こえませんでした。」
 
これだけ騒がれた初公判でしたが、実際この初公判がどのような内容だったかは、当時を思い出しても記憶になく、
後から、『オウム法廷』グルのしもべたち 上 1998.2 や、
江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記 1』を読み返して
新たに詳細を知りました。
 
 
 
 
 
初公判の時点で、中川さんは5つの事件で起訴されていました。
(このとき、まだVX事件などでは逮捕されていない)
 
初公判では、地下鉄サリン事件、薬剤師リンチ殺害事件(1994年1月30日。麻原の指示でYを逃亡させた薬剤師信徒Oがリンチ殺害された事件。麻原が唯一殺害現場に殺害した事件でもある)の審理が行われました。
これら2事件の審理が行われたが、地下鉄サリン事件でも証拠書類が1万以上の膨大にあるので、冒頭陳述の朗読だけで
時間が過ぎた感じがします。(地下鉄サリン事件の冒頭陳述だけで約2万3千字あるとのこと)
検察官が二通の起訴状を朗読している間、中川さんは天を仰いだり、大きく肩で息をついたり、さらに手を握り締めたり開いたりと
落ち着きがない様子だったようです。
 
「今読み上げられた事実についてどうですか」
 
サリンを発散させる計画を、尊師とか村井(秀夫)さん、その他の人たちと、事前に共謀して知っていたわけではありません。
どこで発散させるかも聞いていません」と、麻原との共謀は否認したうえで、
サリンの合成は、村井さんの指示で行いました。正確には今まで使ったことない製法なので、化学的な確認はしてないんですが、少なくとも一定量サリンを含む液体を、私が袋詰めしたことは間違いありません。」
 
サリンの生成に関与したのか?
「はい」
 
この応答で、オウム真理教サリンを製造したという事実が、初めて明らかになった瞬間でもありました。
 
中川さんは、必要最小限の罪状認否だけを行い、麻原や教団に対する思い、被害者への謝罪の言葉は口にしませんでした。
 
ここで、あれ?と思うのが
「医師免許を返上したり、幼稚園から大学までの卒業履歴を消したのは何で?脱会もしれいるのでしょう。
あれは反省の意味ではなかったの?」
です。
私は当時、中川さんがオウム真理教を脱会し、医師免許返上したり、卒業履歴を消してほしいと求めた記事は見ていたので、
初公判であまり謝罪の姿勢が見られないのが不思議でした。
 
その日の朝日新聞夕刊記事には、その後の中川さんの姿勢を示す記述がありました。
 
取調官に対して
「一連の事件について、私は本当に嫌でした。
 決して正しいと思ってやったわけではありません。
 でももう教団の中でしか生きていけない。
 普通の社会じゃ生きていけないと思って、やってしまったのです。
 この気持ちは理解してもらえないと思います。
 
初公判二日前に接見したお母様が
「もう心も身体もすっきりと教団から離れてほしい」と言ったのに対し
お母さんの気持ちは分かっている。でももう戻れない
 
この二つの言葉は、今こうしてオウム事件を見直している現在読み直すと
中川さんの姿勢や事件に対する考え方が現れていると思います。
世間はこの部分を見落としてしまったため、死刑執行後もこじれたのではないかとも
思っています。