僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「慟哭の法廷」を見直す

林郁夫さんの裁判は、「慟哭の法廷」と言われていました。
実際、佐木隆三氏はそれをタイトルに著書を出しています。

 

 

かつての教祖の裁判に証人出廷し、「自分たちが殺してしまった人たちが、
自分が死んでいくことさえ分からなかったのではなかったか。無念だったろうな、
と思った」と言いながら嗚咽をこらえ切れず泣きながら、

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私たちは亡くなった人たちに慈愛を施したと思っていたが

実際には無限大の悲しみを広げてしまった麻原は完璧に間違いだと分かった


本来ならば、麻原が自分の責任で語らなければならないはずだ
などと糾弾するその姿に、当時私は麻原から離れて、麻原のまやかしに気づけた強さを
世間の一つの目として同情を持ってみていた記憶があります。

麻原は「まやかし」だったのです。
世間の目から見ると。

「知り得る限りの事実をありのままお話するのが、人間として当然の責務であち、自分の使命と思う」
とまで言って、1995年末の自身の初公判と、教祖の法廷、共犯者である井上嘉浩さんの法廷や
他の共犯者の法廷に積極的に出てきては泣きながら語る林郁夫さんの姿から
オウム真理教から離れられた人の一つの姿を見ることが出来た気になっていました。

 

当時の新聞記事によると

林被告に勇気づけられるようにして、続いて井上被告が、さらに広瀬健一豊田亨、杉本繁郎被告らが次々事件の詳細を証言するようになったのを新聞で読んで、

林郁夫さんの勇気はすごいとさえ思ってしまいました。

この頃の林郁夫さんは

「真実を明かして、麻原を追い詰めよう」と共犯者に語りかけることもありました。

1995年末からしばらくのオウム法廷は、林郁夫さんと、同じくオウム真理教からの脱会宣言をした井上嘉浩さんの「英雄的行動」で報道されていた感じがします。
それで何となく、マインド・コントロールという言葉を覚え、オウム信徒でも、逮捕されて麻原と離れると1年ぐらい時間はかかるが、教団のおかしさに気づけるまでになるものだとか勝手に考えていました。

今考えると甘かったです。

多分1996年当時、世間一般はそれぐらいでオウム真理教の事件について理解した気になってしまったと思います。
今から思うと、世間一般としてはカルト教団に対する考え方が単純で甘かったと思います。

果たして、マスコミのタイトルのように、

他の共犯者は林郁夫さんの呼びかけに答えたのでしょうか。
VX事件を自首したガルは、林郁夫さんの姿に勇気づけられたとのことです。
林郁夫さんに影響された人に共通するのは、おそらく、「言葉」からオウム真理教に入っていった人たち、かつ教団の運営に対しおかしいと思っていた人たちだったのではないかと思います。

「読売新聞」1996年12月18日朝刊には、林郁夫公判に出廷した中川智正さんが
私は論理ではない部分で尊師についていった。(林さんの)公判の陳述を聞いても裏切られたという感情はない
と言っています。
この言葉に注目したいと思います。

林郁夫さんは教団に対して毒ガス攻撃がされていることを信じていたのに、裏切られたと証言したけれど、
それももっともだとしています。
その辺が当時も、いや執行直後にブログのテーマにするようになってからも理解できていませんでした。

林郁夫さんの著書『オウムと私』を読むに、教団の運営方法がおかしくなってきたことなどは詳細に書かれていますが、林郁夫さん自身がヨガの修行で神秘体験を経験したことは書かれていませんでした。

 

 


林郁夫さんは阿含宗入信からの流れで、言葉からオウム真理教に入っていって、
ひたすら教団の構成員である以上教団のやり方に異を唱えてはいけないと自分を縛り付けてきた経緯を記していますが、中川智正さんや、広瀬健一さんらが経験された神秘体験をしたという記述がないのです。

林郁夫さんが法廷で慟哭し、教団を糾弾する姿を見せられても、中川さんは
裏切られたという感情はない」と言えたのは、

「自分と林郁夫さんとは考え方が違う」というものがあったということ。
ここに気づけていませんでした。

林郁夫さんに影響されて、共犯者が話すようになったのか?
例えばVX事件の実行者であったガルは、教団を数回脱会し、連れ戻されたり
近くでも薬物漬けにされておかしくなってしまった信徒を目の当たりにしていたのも
あって、林郁夫さんに影響されてVX事件の自首をしました。

自分の神秘体験よりも、現実のオウム真理教に幻滅している方が大きかった人は
なるほど、教団から抜けるのは早かったほうなのかもしれない。

例えば、ここで地下鉄サリン事件の実行犯(丸ノ内線)である広瀬健一さんは
どのような状態だったのでしょうか。

 

 


「逮捕された後、供述すると悪業になる内容について、私は取調官の追及を受けるようになりました。
しかし、それでも、はじめはまったく供述できない状態であり、追及の外力に身を引きちぎられるように感じました
そのような状況において、私は軽度の悪業となる内容から少しずつ供述せざるを得ませんでした。
私が最初に話したのは、地下鉄内で自身がサリンを発散させた単独行動の部分でした。事件に関してかなりのことがすでに明らかになっていた状況であり、

個人的な行為として供述するならそれほど悪業にはならないと思ったのです。

その後黙秘と供述を何度も繰り返して、長期間かけて動機のヴァジラヤーナの救済の教義のことや、麻原の事件への関与について供述できるようになりました」

 

とあるように、林郁夫さんの供述に影響されるというよりも、

地下鉄サリン事件のこの件はここまで明らかになっているがどうなんだと問われて、

ようやく答えるという感じが見受けられます。
広瀬健一さんの著書には、不思議なことに共犯者の林郁夫さんに関する記述がないのです。

なお、広瀬健一さんの法廷での名言は
サリン発散を引き受けたのは、教団が好きだったから

(井上嘉浩被告第7回公判 1996年7月16日)
です。
「多くの人を苦しめることになるというふうに自分が思うのは、自分の煩悩」と考え、さらには
「教団から逃げ出そうとしなかったのは、オウムが好きだったから、当時は解脱することが人生の絶対的目的であり
それに向かって修行することだと考えていた」とも言っています。
だから井上嘉浩さんが「ポアの恐怖」から犯行に加わったとしているが、広瀬さんからみた井上さんも
自分と同じように考えていたはずとも言っています。


世間は、林郁夫さんの法廷の様子をもって、麻原のまやかしに気づけたとするけれど、
実際は、広瀬健一さんのように、取調官からの追及で、少しずつ話すようになった人や
横山真人さんのように、取調官と人間関係が作れず話すことができないまま処刑されてしまった人もいたことを、継続的にみていくべきだったのではないかと思います。
今さら遅いですが。

ましてや中川智正さんと林郁夫さんは医学部卒業で医師免許持ちということで
一緒に捉えられがちではありますが、


林郁夫さんは「論理で」、中川智正さんは「神秘体験」で教団生活を送っていた違いがあります


やはり、教団の犯罪を見る時は、その犯罪者の供述からその人の個性や、どのように入信していったなど、なるべく背景をみるようにしないと表面しか見ないで終わってしまうのではないかと思います。

その背景を辿ることで、カルト教団に染まる人間の様々な事例を学ぶことができると

思います。それは生きた話なので、貴重だと思います。

よく、オウム死刑囚が執行されたあと、「麻原は(語らないから執行は)やむなくも、

他の信徒たちの姿はカルト教団の生き証人として生きて償ってほしかった」という声が

ありましたが、私もそれに同意するものであります。

次は、中川智正さんと林郁夫さんが互いの法廷に出廷してどのようにやり取りをしたのか、
そこから見えてくるものは何かを書いていきたいと思います。