僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

中川智正(サリン製造役)から見た地下鉄サリン事件

本日、地下鉄サリン事件から27年です。


私はこういうブログを書いているため、何となく
献花に三年ほど行っておりましたが、
今年は、翌日早朝から仕事のため、いくのをやめました。


私は地下鉄サリン事件に遭遇せずに済んだけれど
その日被害に遭われて亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
サリン事件の後遺症に今も悩まされている多くの方々のことをも
思い出す一日となっていました。

 

本日二回目の投稿です。
サリンの製造役から見た地下鉄サリン事件とはどのようなものだったのかです。
中川智正さんは、地下鉄サリン事件で使われたサリンを製造しました。
これは3月18日未明に東京から上九一色村へ移動するリムジン車内で
遠藤誠一さんが麻原より「サリンつくれよ」の一言で
サリンを製造することとなってしまいました。

サリンの製造責任をめぐって裁判で泥沼の闘いが続くこととなりますが、
中川智正さんは弁護士の奮闘もあって、サリン製造しただけ、となっています。

そのような中川智正さんから見た地下鉄サリン事件に至るまでの経緯を
見てみたいと思います。

【参考文献】

 

中川智正本よりも詳細です)

中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」(『現代化学』2016年11月号)

 

 

オウム法廷11

 

 

1995年1月1日の読売新聞記事
「警察がサリン関連物質を教団施設周辺の土壌から検出した」と出た際、
麻原は中川智正さんらに教団のサリンを破壊するよう命じました。

第七サティアンサリンプラントの建設、試運転はただちに停止され、
中川智正さん、土谷正実さんと部下の信徒たちは、土谷棟でサリンやVXなど
破壊作業に入りました。皆サリン中毒や疲労のまま作業し、破壊できなかった
サリンの材料(メチルホスホン酸ジフロライド)とVX2本が残りました。
この破壊できなかったサリンの材料をもとにサリンを製造したのが、
地下鉄サリン事件時のサリンでした。

この頃の中川智正さんの状況ですが、
麻原と村井秀夫から「掉挙(じょうきょ)=心が浮ついている)」と指摘され
修行に入れられていました。

中川智正さんが竹刀で殴らているところを遠くから見た信徒

 

 

もいます。

 


サリン製造という「大役」を果しながら、中川智正さん自身は心が浮ついている
と評価され、ある時は竹刀で殴られていました。
私などから見れば、サリン製造役は教団にとって大役だし、大切にされていたのではないかと見ますが、むしろ中川智正さんは麻原から遠ざけられていました。


中川が不調になると、その不調が尊師に影響するから」と。

 

サリン破壊作業とともに、修行に入るという生活でした。

教団ではサリン破壊作業と並行して、

永岡弘行・オウム真理教被害者の会(現・家族の会)会長VX殺未遂事件も起こしています(1995/1/4)。
その翌日、村井秀夫から「土谷棟にはもうまずい薬品はないね」と念押しされ、
さらに村井と中川とでダブルチェックもしています。
その後、村井秀夫は、土谷棟から、VX2本と、メチルホスホン酸ジフロライド(サリンの材料)を発見ましたが、皆が体調不良で、設備も動いてないから壊すのを諦め、
村井秀夫の判断で、これら薬物を井上嘉浩に依頼して、上九一色村から持ち出させました。これらは、発泡スチロールの箱に入れられ中川から井上に渡されました。

 

井上は、それらを「今川アジト」に持ち帰って保管したとのことです。
中川は、一月中旬「今川アジト」を訪れたとき、井上から
「あれ、ここにあるから」と言われました。
今川アジトにジフロがあることを中川は村井に告げると、「他にも処分しなければならない薬品は沢山あるから、とりあえず今川アジトに保管でいい」と言われたとのことで
この時点でサリン製造の意思は教団にはなかったのです。

なお、一月中旬に幸福の科学総裁・大川隆法氏の車にオウムがVXを撒布したが、
これは今川アジトから持ち出されたものの一本でした。

3月18日未明に、東京から上九一色村に戻るリムジン車内において、
麻原、村井、遠藤、井上、柏原、芦川の六名で話し合いがされ、
井上がボツリヌス菌でいいのではといったら、麻原が「サリンじゃないと駄目だ」
といったので、サリンを製造することとなったようです。
中川さんは、オウム真理教幹部であっても、リムジン謀議のような重要な会議に
出席もさせてもらえない立場でありました。
どんな話し合いがされたのかは最期まで解らずじまいのようでした。

この日の夕方、第六サティアンの二階にいた中川のところに村井がきて、
今川アジトに保管していたジフロからサインを作る計画があると告げました。
ここで初めて中川さんはサリン製造計画を知ります。
中川さんは、「ジフロはもう上九一色村にはない」というと、村井がクーラーボックスを持ってきていて、開けて見ると、ジフロがあっただけでした。
村井は中川に、遠藤棟にジフロを持っていき、そこでサリンを作れと命令を受けました。
遠藤棟に行くと、遠藤さんは、「ジフロだけしかないのか?」といいました。
今までの製造法では教団のサリン製造は無理だと考えられていました。
遠藤らによると、ジエチルアニリンを使用してサリンを製造することと決まり、

 

地下鉄サリン事件時のサリン製造の方程式

f:id:boku2world:20220320164301j:plain



中川さんは、それでは教団がサリン製造したのが判明してしまうと疑問を述べたが、
それでもかまわないと言われたので、そのサリンは当面使用する予定がないものだと中川さんは考えていたようです。

3月19日正午、遠藤さんから「サリンを作るので、遠藤棟(CMI棟)に来てくれ」といわれ、そこでサリンを作る事となったが、
中川さんはここで村井から叱責をうけます。

ヘッドギアをつけていない!

 

夕方ごろサリンが完成しましたが、

ここでも村井秀夫から「尊師の調子が悪くなっている。帽子をいつも付けるように」と叱責を受けています。

常識で考えれば、ヘッドギアとサリン製造には因果関係はないですが、
当時の麻原、村井、中川の関係においては、サリン製造以上に、
中川がヘッドギアをつけずにサリン製造というワークをしたことで、麻原の体調が悪くなると考えられていたのでした

村井と別れたあと、中川は遠藤とともに、ビニール袋にサリンをつめます。
遠藤の指示を受けて、指紋がついてしまうことも気にせずに、つまり事件に使用されるとは思わずに、袋詰め作業を行ったのです。
中川は、自分が袋詰めしたサリンはどこかで保管されているだろうぐらいにしか
考えていなかったのでした。
サリンをどこかに持って行ったのは遠藤で、さらに、予防薬メスチノンをくれと
言われたので、中川はそのまま手持ちのメスチノンを遠藤に渡しました。

そうして3月20日中に中川さんは地下鉄サリン事件を知り、自分が製造したサリン
使われたことを理解しました。
特に村井から声がかからなかった中川は、土谷棟の様子を見たり、修行したり、
自室の片付けをしたりしていました。
翌日、警察車両が、何台も上九一色村に入ってくるようになって、その日の夕方
村井秀夫の指示により、中川は他の信徒とともに、上九一色村から逃走生活へと
入ることとなりました。

この話を初めて法廷でしたのは2000年2月28日のことでした。
それまでの中川さんは、井上嘉浩さんを守るために?ジフロは自分が所持していた
とウソをついていました。

サリン製造者だった中川さんらでさえ、サリン中毒にかかりすぎて麻痺していたのか、
地下鉄サリン事件があそこまで大きなものになるとか考えることが出来なかったのでした。
松本サリン事件のときのサリンの方が純度の高いサリンだったのもあるはずですが、
東京の地下鉄の空間で目をやられてしまうと、サリンの残留物から造ったサリンで、
死者14名 負傷者6000名の、世界史上に恥ずべき大事件となってしまいました。

今ではたまにテレビ番組などで、サリンの製造過程を土谷正実さんの行動を中心にみられるようになっているけれど、製造の時にヘッドギアをしないことで村井や麻原から怒られていた中川さんの姿から、

なぜ中川さんは、最期までオウム真理教の日常を少しずつでも外部発信しようとしたのか、その一端が少しわかってきます。
オウム真理教を、ただのまやかしのテロ集団としてしまった方が、理解しやすいのかもしれませんが、それだけでない、宗教的なものが少なくとも、中川智正本人の中にあったということを何とかして残そうとしたのだと思いました。

中川智正さんの裁判だけではなく、他の死刑囚になった信徒の裁判では現在の教団とのつながりが問われていましたが、皆「離れているように見えて、離れることが困難だった」ようです。それはそのままテロ事件として、殺人事件として受け止められれば、潔いのかもしれないけれど、そこまで強い人間はいなかったということではないでしょうか。