【殺人マシーン】林(小池)泰男の人物像【ヤスさん】
こちらのブログ、本当に久しぶりの更新となってしまいました。
今回は林(小池)泰男さんの人物像について説明したいと思います。
このブログは中川智正さんに関する内容ですが、林(小池)泰男さんの裁判での言動を知ることによって、中川さんに関して新たな見方が出来るようになると思っているからです。
ところで、私自身は、中川智正さんについて調べ始めたころ、林(小池)泰男さんについてどうイメージしていたか、というと
この雑誌記事通りです。
『週刊宝石』1995年7月13日号の記事より。
当時は教祖も共犯者もほぼ逮捕されている状況の中、地下鉄サリン事件の実行犯である上、さらにサリンを持って逃亡して何かしようとしている『殺人マシーン』というイメージでした。
この雑誌記事にあるように、早川紀代秀さんの側近であると書いてあるので、きっと教団の武闘派のひとなのだと思っていました。
しかし実際は、外部交通者にもなった田口ランディさんの本からうかがえるように
一度もお目にかかったことのない私でも「ヤスさん」とお呼びしてしまうような
実直で、穏やかで、不器用な方だという見方に変わりました。
中川智正さんと林(小池)泰男さんの接点は、
新宿駅青酸ガス事件です。
なぜ地下鉄サリン事件ではないのでしょうか。
書類上では確かに共犯者にされると思います。
役割が異なったからです。
製造側と、実行側は井上嘉浩さんを除いては接点はありません。
村井秀夫、井上嘉浩、遠藤誠一は、3月18日深夜のリムジン謀議の場にいました。
(なお、この謀議の場にいたのが、柏原弁護士と芦川順一もでした。柏原弁護士は、懲役刑が終わったあと、社会で生活していて、芦川順一は起訴もされなかったのでした。
実行犯と、実行犯を送迎した運転手が死刑と無期懲役等で罪を償ったのです。)
製造者は上九一色村におり、
実行犯と送迎者は、東京都内にいたので、
共犯者とはいえ、接点はなかったのです。
中川智正さんと林(小池)泰男さんとの直接のかかわりは、そういうわけで、地下鉄サリン事件後、アジトを転々としながら麻原の指示を受けた井上嘉浩を中心としたテロ行動の時だったのです。
このアジトを転々としている時期ですが
川越のウィークリーマンションにいた時、中川智正さんが一緒にいた豊田亨さんについ
地下鉄サリン事件の話を断片的にしたところ、さらに豊田さんが気落ちしてしまった様子をみて、何となく「豊田が実行犯の一人だ」と製造者側として思ったという話が、
『オウム法廷』4にあります。
(松本智津夫被告第24回裁判、1997年1月31日)
基本は事件の話をしないままアジトを転々とする生活内で、中川さんはこのような小さな会話で、自分の製造したサリンを撒いた役の一人が豊田さんだったとわかったらしいです。
林(小池)泰男さんの話に戻ります。
彼がなぜ「殺人マシーン」とマスコミから言われたのかというと、彼が担当にした
日比谷線の被害が甚大であり、死者が8人も出たことなどによります。
地下鉄サリン事件のサリンは、麻原の指示により、松本サリン事件の時とは異なる製造方法でした。
読売新聞の報道により、オウム真理教がサリンを製造していることが報道された1995年正月に、製造したサリンを破壊してしまっていたから。
とはいえ、大量なので作業者はサリン中毒になりながら寝ないで作業したけれど、破壊しきれなかったのでした。破壊しきれなかった材料(ジフロ)を今川アジトに隠していたのを、麻原からサリン製造を命令されて持ち出してきたのをもとに製造しました。
そのサリンの袋が11個できました。
村井秀夫が、実行役5名(林(小池)泰男、豊田亨、横山真人、広瀬健一、林郁夫)にサリン袋を分ける時、どうしても誰かが一袋多く引き受けなければならなくなりました。
村井から「どうだ。(3袋)持ってくれるか」と声を掛けられたときに、麻原の命令だし、引き受けざるを得ないと、ヤスさんは思ったということです。
ヤスさんは、皆に愛される人でした。
その一つは、「他人の嫌がる仕事をすすんで引き受ける」です。
「人の嫌がる仕事を進んで引き受ける」タイプの人は、どんな組織でも重宝されるはずです。それがヤスさんの場合は、オウム真理教の地下鉄サリン事件実行犯に麻原、村井から選ばれてしまったことでした。
しかも、ヤスさんの場合は、1994年ぐらいから麻原の言動に理解しがたい物を感じていたが、それに逆らったら殺されてしまうのが怖くて逃げられないと思い、逃亡しなかったことや、さらに悪いことに、行きたくなかった科学技術省に異動となり、村井秀夫が上司となったことで身動きが取れなくなったのです。
ヤスさんこそ、嫌な仕事ではあるが、所属している組織の命令だからと実行したことで
自分の命をもって最期償う事となってしまった人物であります。
ヤスさんを見ていると、現在何らかの組織に嫌々所属している私たちだって、時と場合によってヤスさんに立場になり得るのではないかと思えてしまいます。
ヤスさんは、サリン袋を突く時に、「スカでありますように」と念じつつ何度も傘の先でついたということです。
地下鉄サリン事件後、アジトを転々とする生活中、ヤスさんは、深夜映画にのめり込み、オウム事件の報道をなるべく見ないようにしていたとのことです。
新宿駅青酸ガス事件後、井上嘉浩、豊田亨、中川智正さんが逮捕されていくなかで、
恋人と東京、名古屋、京都、沖縄と逃亡生活を続け、1996年12月3日に石垣島で逮捕されました。
他のオウム事件の被告に比べて、初公判が開かれたのは遅かったけれど、死刑が確定したのは2番目でした。
それは、全面的に罪を認めて裁判に臨んだことが大きかったと思います。
死刑判決文には
「被告人には善良な人柄を読み取ることができる。…被告人の資質ないし人間性、それ自体取り立てて非難することはできない。…およそ仰ぐべき師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまだ、不幸かつ不運である」
とあります。
⤵はヤスさんの国選弁護人を務めた中島尚志氏の著書より
林(小池)泰男さんは、死刑時は「小池泰男」でした。
これは教団信徒の女性と獄中結婚をして、改姓したからです。
私個人は、林(小池)泰男さんが元オウムの女性と獄中結婚をしたと聞いても
「ああそうか」ぐらいにしか思いませんでした。
しかしながら、中川智正さんが死刑執行後、実は獄中で教団元信徒女性と養子縁組をしていたというこのツイートを見た時、正直、ショックを受けました。
当時(今は自分のミスで消してしまったブログですが)、中川智正さんについて書いていたので、自分が何か悪いことを発信していたのではないか、と勝手に悩んでしまいました。
脱会したのに、元オウム信徒と養子縁組していた?
死刑執行後、本人は実家に戻らなかったのか?
とにかく数か月ショックを受けていました。
当時、中川智正さんが実家に戻らなかったことで、「裏切られた」と感じ、離れたひともいました。
私は、オウム真理教のような宗教から完全に離れるのは難しいのではないか、特に死刑囚だからこそ、と思い、
再度調べ直したりするきっかけとなりました。
その際に、資料を読み直すと、特に接点が多いとは言えない、林(小池)泰男さんの言動を手掛かりに見ていくなら、死刑囚として死んでいく人が、強がって教団と縁切りして孤独のまま死刑囚生活を送るよりは、死刑を受けるまでの日を精神的にサポートしてほしいと思って、元信徒の方を外部交通者として持つのは当たり前ではないかと思うようになりました。
中川智正さんは一審だけで8年近くかかりました。
本人は、2000年以降積極的に発言するようになったのですが、なぜかその内容が
世間では知られていません。
2014年死刑囚としてオウム信徒の公判に出廷し冒頭に謝罪。2017-2018年にかけてVXに関する論文を獄中で反省の意味を込めて書いたことで、なんとなく「オウム真理教事件を反省しているひと」とされているけれど、
中川智正さん自身は、それ以前に自分が確定死刑囚になる前に「オウム真理教の事件が若い人に体系的に理解できるようになっていない」と嘆いてもいました。
その一端が、江里明彦氏との雑誌『ジャム・セッション』のエッセイをよく読むと分かる気がします。
それにしても、林(小池)泰男さんならスルーされることが、なぜ中川智正さんだと問題になるのでしょうか。これは私たちの「思い込み」が原因ではないかと思う今日この頃です。
今後数回、ヤスさんにご登場願って、中川智正さんの裁判中の言動を見ていきたいと思います。