僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

一審判決まで8年かかった裁判

前回のエントリーでは、中川さんの初公判について書きました。

初公判の時点でオウム真理教サリン製造をしたことは明らかになったし、

その他、中川さん自身も事件の詳細について供述をしているという報道もありました。

にも、かかわらず、中川さんの裁判は、一審だけでも8年かかりました。

私は、このことに改めて気づいたのは、中川さんが死刑執行されてからです。

 2014年ぐらいに中川さんが確定死刑囚ながら裁判に出廷されたことがありました。

 

冒頭に中川さんが謝罪されたとのことです。

私は当時、中川さんは初公判以降、いつの間にか裁判が進んでいて、やはりオウム真理教の多数の事件に関与したために死刑囚になって、その間に謝罪の気持ちをもつようになったのだ、ところでこの人、いつマインド・コントロールから解放されたんだろう、ぐらいにしか考えておらず、オウム真理教関連報道を真剣に見ていませんでした。

 では初公判でサリン製造を証言し、他のオウム真理教関係事件の供述もしていると言われていた中川さんの裁判が、一審判決までなぜ8年もかかったのでしょうか。

 

その前に、オウム真理教関係主要被告(死刑執行済)の一審判決までに要した期間を

まとめた表を作成したので見てください。

 

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オウム真理教関係で死刑執行された被告たちの一審期間を期間の長い順に並べ替えてみました。少ない人でも3年、地下鉄サリン事件実行役の方は5年ぐらいでした。

彼らと比べて中川さんは3年も長いのはなぜなのでしょうか。

一つは、関与している事件数が多かったことです。

  1. 坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪
  2. 薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪
  3. 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
  4. 松本サリン事件(殺人罪、殺人未遂罪)
  5. 駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
  6. 会社員VX殺害事件(殺人罪
  7. 被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
  8. 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(逮捕監禁致死罪、死体損壊罪)
  9. 地下鉄サリン事件殺人罪、殺人未遂罪)
  10. 新宿駅青酸ガス事件(殺人未遂罪)
  11. 東京都庁小包爆弾事件(爆発物取締罰則違反、殺人未遂罪)

 

なお、初公判の時点ではまだVX殺害事件は明らかになっておらず、関係者は逮捕されていませんでした。当時はある日は裁判に、またある日は再逮捕と、世間の動きとは関係ないところで忙しかったに違いありません。

 

 

中川さんが逮捕やその後の再逮捕の度に、裁判所で勾留質問という手続きがあるために、浅草署から裁判所に連行されることが多かったのです。その際、浅草署からワゴン車一台で向かったところ、留置係の警官によると、「〇〇署が、(オウム真理教の)〇〇容疑者を連れて裁判所に行ったときには車二台だったのに、浅草署は中川を連れてワゴン車一台で行った」という噂が立ってしまったため、浅草署では人手をやりくりし、何とかワゴン車とパトカーを出して中川さんを裁判所まで連れていったとのことです。

ちなみに中川さんがVX襲撃事件で逮捕されたのは、1995年12月1日のことでした。

(「読売新聞」)

 

中川さんの裁判が他のオウム真理教関係被告(死刑判決を受けて執行された者)に比べて長引いた理由として挙げられる理由のもう一つは、1998年に弁護人の交代があったことです。

中川さんの弁護人は、最初は中川さんのご両親が地元岡山の弁護士を雇ってつけたのでした。

初公判時でも

「一〇四号法廷の弁護人席にはポツンと一人の弁護士が座るだけ。六日前に同じ法廷で行われたA(オウム真理教弁護士)の初公判で、18人もの弁護士がひしめき合うように座っていたのとは対照的だ。」と江川紹子さんが書かれているように

 

 

「オウム真理教」裁判傍聴記 1 (文春e-book)
 

 

オウム真理教の重要事件に関与している被告の公判としては、弁護人が所在なげに座っている姿が伺えます。

 

オウム真理教の重要事件の被告の弁護人は、教祖の逮捕前後より、オウム真理教から弁護士会に対して依頼があり、教祖と井上さんに関しては担当する弁護士選びが難航したのでしたが、一審で井上さんを担当することとなった弁護士は、

「この時代、この場所にいて、やり手のいない困難な大事件を自分の手でやってみたい」という思いから最終的に引き受けたとのことで、同じく5名の弁護士で裁判活動をしたとのことです。

 

 井上嘉浩さんでも5人で活動するほどだったのに、中川さんの場合は1998年まで岡山の弁護人1人で、最終的に11事件で起訴された被告を支えるのはどれほどのものだったでしょうか。

中川さんのご両親は、自分たちの身を切るように弁護人を雇ってでも、息子をオウム真理教から取り戻そうと思ったのでしょう。

教団とはうちの息子は脱会したのだし、関係はない、ということをどうしても示したかった。そして息子には何をしたのか、裁判で話してほしかった。

そこに、次から次へと息子が再逮捕されていき、ついには弁護人一人では事務処理的にも無理ということとなり、息子は何をしたかも裁判で話そうともせず、むしろ教団からも離れる様子もない、何を考えているか分からないというところで弁護士交代となったと思います。なによりも、中川さんの関与した事件が多すぎて訴訟費用が莫大だったのが大きかったようです。

新たに中川さんの裁判を担当する弁護士は3名だったとのことです。

井上さんの一審時代の5人ほどではないにしても、これまで一人の弁護人で裁判に対応していたときよりは、事務的にも活動しやすくなったのではないでしょうか。

 1998年11月の裁判再開にあたって、中川さんの新たな弁護団は、これまでの「殺人ほう助の限度での責任に留まる」から無罪主張へと大きく裁判姿勢を変えました。

 

 最後に、中川さん自身の裁判に対する向き合い方が変わったということを挙げたいと思います。

中川さんは取調官に供述はしていたけれど、2000年ぐらいまでの公判では黙秘、証言拒否をしていました。このあたりは私も中川さんが死刑執行されて調べ始めるまでは、私は知りませんでした。

中川さんは2000年ぐらいまでは黙秘、証言拒否で裁判期間を結果としてのばし、それ以降証言するようになってからは、これまでのオウム真理教事件では語られてこなかったことを証言するようになりました。サリンなど毒物の知識だけではなく、自分の神秘体験についても。これがあまりにも現世の人間には理解ができなさ過ぎることで、その上、教祖がますます語らなくなったため、中川さんが教祖に代わってオウム法廷において、教団諸事件の語り部として裁判での発言が重視されるようになりました。

関与した事件の多さ、弁護人の変更と裁判方針の変化、中川さん自身の裁判に向き合う姿勢の変化などが、なんと中川さんの一審判決まで8年もの長期間を要したものとなったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

プロレス中継なみに騒がれた初公判

 中川さんの初公判は、当時を思い出すと 裁判傍聴希望者が4158人と、「ロッキード裁判」田中角栄元首相の判決時を超えるほど世間の関心が高かったと 思います。

 私は当時を思い出すと、中川智正さんの裁判というよりも、その二日後に開かれる予定だった 麻原裁判がどんなになるだろうか、当時、そのキャラクターが強烈であるがゆえ、マスコミのおもちゃにされている 弁護士が何をやらかすだろうか、そちらに目を向けていました。他の人たちもそうだったと思います。

 

中川智正初公判は、教祖の裁判を前に、その露払いな役割だったのだと思います。

どこの新聞社も、中川智正初公判について大きく紙面を割いていました。

当時の私もそうですが、その紙面を「精読」するよりも、

中川さんが「地下鉄サリン事件の犯人」である事実と、

 加害者親となってしまったご両親(とくに母親)の談話にばかり目が言ってしまっていました。

(「毎日新聞」ではお母様の談話を丁寧に載せていたのは、前のエントリーの通り。 

「被害者の親」から「加害者の親」へー支える覚悟、固めた母 - 僕は二つの世界に住んでいる

 

「息子が多くの方々の貴い命を奪い、計り知れない悲しみと苦しみをおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。 智正が知っている限り、真実を語り、罪を償ってもらいたいという気持ちです」(『読売新聞』1995年10月24日夕) という、ご両親が弁護人がを通して談話を公表されていたのを新聞記事の端にみつけて、

(ご両親が)「大変だなあ・・・」と感じていたことを思い出します。

加害者の親だけど、きちんとマスコミ対応をしている きちんとされた家庭であることを精一杯アピールしている姿勢が、痛々しかったです。

加害者の家族となってしまったならば、家族全員がマスコミをシャットアウトし、引きこもるのが普通だと思っていたからです。

 

当時の中川さんは、ご自身の初公判の時の様子を以下のように書いています。
『ジャム・セッション』第5号 2014年7月 のエッセイより
 
「初公判の朝、私は浅草署の一階にあるガレージに下りて、そこで車に乗り込みました。
(中略)署の周囲を取り巻くように群衆がいるのが見えました。
百人は超えていたと思います。
手前には報道陣がカメラを持って陣取り、その向こうには店番や台所仕事からちょっと抜け出してきたようなおじさんやおばさんが沢山いました。
(中略)
上空にはヘリコプターが何台か飛び、
私の乗った車にはテレビ朝日の放送車が並走しました。
アナウンサーがマイクを持ち、プロレスを中継してるのかと思うような表情で私の方を見て何か喋ってます。
何を言っているのかは聞こえませんでした。」
 
これだけ騒がれた初公判でしたが、実際この初公判がどのような内容だったかは、当時を思い出しても記憶になく、
後から、『オウム法廷』グルのしもべたち 上 1998.2 や、
江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記 1』を読み返して
新たに詳細を知りました。
 
 
 
 
 
初公判の時点で、中川さんは5つの事件で起訴されていました。
(このとき、まだVX事件などでは逮捕されていない)
 
初公判では、地下鉄サリン事件、薬剤師リンチ殺害事件(1994年1月30日。麻原の指示でYを逃亡させた薬剤師信徒Oがリンチ殺害された事件。麻原が唯一殺害現場に殺害した事件でもある)の審理が行われました。
これら2事件の審理が行われたが、地下鉄サリン事件でも証拠書類が1万以上の膨大にあるので、冒頭陳述の朗読だけで
時間が過ぎた感じがします。(地下鉄サリン事件の冒頭陳述だけで約2万3千字あるとのこと)
検察官が二通の起訴状を朗読している間、中川さんは天を仰いだり、大きく肩で息をついたり、さらに手を握り締めたり開いたりと
落ち着きがない様子だったようです。
 
「今読み上げられた事実についてどうですか」
 
サリンを発散させる計画を、尊師とか村井(秀夫)さん、その他の人たちと、事前に共謀して知っていたわけではありません。
どこで発散させるかも聞いていません」と、麻原との共謀は否認したうえで、
サリンの合成は、村井さんの指示で行いました。正確には今まで使ったことない製法なので、化学的な確認はしてないんですが、少なくとも一定量サリンを含む液体を、私が袋詰めしたことは間違いありません。」
 
サリンの生成に関与したのか?
「はい」
 
この応答で、オウム真理教サリンを製造したという事実が、初めて明らかになった瞬間でもありました。
 
中川さんは、必要最小限の罪状認否だけを行い、麻原や教団に対する思い、被害者への謝罪の言葉は口にしませんでした。
 
ここで、あれ?と思うのが
「医師免許を返上したり、幼稚園から大学までの卒業履歴を消したのは何で?脱会もしれいるのでしょう。
あれは反省の意味ではなかったの?」
です。
私は当時、中川さんがオウム真理教を脱会し、医師免許返上したり、卒業履歴を消してほしいと求めた記事は見ていたので、
初公判であまり謝罪の姿勢が見られないのが不思議でした。
 
その日の朝日新聞夕刊記事には、その後の中川さんの姿勢を示す記述がありました。
 
取調官に対して
「一連の事件について、私は本当に嫌でした。
 決して正しいと思ってやったわけではありません。
 でももう教団の中でしか生きていけない。
 普通の社会じゃ生きていけないと思って、やってしまったのです。
 この気持ちは理解してもらえないと思います。
 
初公判二日前に接見したお母様が
「もう心も身体もすっきりと教団から離れてほしい」と言ったのに対し
お母さんの気持ちは分かっている。でももう戻れない
 
この二つの言葉は、今こうしてオウム事件を見直している現在読み直すと
中川さんの姿勢や事件に対する考え方が現れていると思います。
世間はこの部分を見落としてしまったため、死刑執行後もこじれたのではないかとも
思っています。

献花めぐり@2021

さて、今年も地下鉄サリン事件の日に

献花めぐりをします。

 

お花💐はこんな感じで、日比谷花壇・アトレ恵比寿店さんで作っていただきました。

 

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数日前に来店予約をして行きました。

こちらの花屋さん、美容室に行ったような気持ちにさせてくれました。

(駅中のお花屋さんなんですが、カウンセリングが素晴らしかったです‼️)

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花束のイメージを伝えるときに、昨年の写真(だから今朝ブログをアップした)をみせたら

私のブログに興味を持ってくださり、昨年とは違うものを丁寧に作ってくださいました。

感謝です。

(花束💐がつくられていく途中)

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日比谷線の恵比寿駅から乗りまして、まずは

神谷町に向かいます。

神谷町駅の目黒方面ホーム上の駅務室にて献花。

次は霞が関に向かいます。

霞が関駅は千代田線と日比谷線の間にある駅務室に向かいます。

途中にこのプレートがありました。

献花に行く途中、男性がこのプレートの写真を撮っていたのは、駅務室の雰囲気が物々しかったからに違いありません。

 

駅務室前に喪服男性が立ち、一礼して献花しました。

献花に訪れるひとが一番多い駅なのでしょう。

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次は丸ノ内線に乗って、中野坂上駅に向かいます。

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中野坂上駅へは丸ノ内線で10駅です。

結構時間かかります。

昨年、どこに駅務室があるか迷いました。

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プラットホームからこの幅の狭い階段を降りて

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左に曲がり、改札を出るとと駅務室が見えます。

なお、献花の撮影は禁止の張り紙がありました。ギリギリの撮影です。

中野坂上駅のあとはまた、日比谷線に乗り換えるため、霞が関駅に向かいます。

霞が関駅で日比谷線に再度乗り換え、今度は一番死者が出た小伝馬町駅に向かいました。

日比谷線担当実行犯が、小伝馬町の前の秋葉原駅サリンの袋を傘の先でついたためです。

この駅は中目黒方面の改札出たところに駅務室があるので、急な階段を降り、配管をみながらまた階段を登るしかありません。

もはや迷路です。

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階段のぼって

 

改札を出たところに駅務室があります。

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小伝馬町駅ではサリンの袋が、乗客によって蹴り出されたためさらに被害が拡大しました。

それでも地下鉄は運行し続けたため、さらに八丁堀駅でパニックに陥りました。

八丁堀駅で献花と記帳をしたときに、

www.rsc.or.jp

の方々も献花に訪れていたのを知りました。

 

地下鉄サリン事件による後遺症に苦しむ方々を支援するNPO法人です。

知られてないですが、今もなおサリン事件時の後遺症ではないかと訪れる人がいます。

被害された方の中には当時は若くて体力あるためか、だるさや目の痛さにより就業に支障を来たし、当時から多くなってきた働き方・派遣社員だった方などは、本人の勤怠不良によるとして契約を切られてしまうひとがいました。

私も派遣社員なので、当時、サリン中毒による体調不良などで派遣の契約を自己責任として切られた方の話は、他人事ではないです。

被害者は国の支援も不十分なまま、NPO法人の存在に気づかなければ(それでも足りないけれど)切り捨てられてしまうのです。

自分が被害に遭わなければわからないけど、

被害に遭遇した場合は自分の責任とされてしまう。世間や会社は地下鉄サリン事件の存在を承知してはいても、やはり自己責任なのだなと感じました。

サリン事件後電車に乗れないなどの気持ちに寄り添えないのだなと。

小伝馬町から築地までのウォーキングで(バスを並走させ、参加者の体調不良などにそなえる)献花をすることもしているのを知っていたので、名前を見つけて、なんだかほっとしました。

最後は築地で献花をしました。

今年もなんとか献花ができました。

 

さらに、当時現地対策本部となった築地本願寺にもお参りしました。

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最後は聖路加国際病院に行きました。

チャペルの中には入れませんでしたが。

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当時、聖路加国際病院の院長であった

日野原重明氏は、

外来停止し、サリンの被害者をチャペルまで受け入れる決断をされました。

詳しくは

www.igaku-shoin.co.jp

 

日野原重明先生の桜はきれいでした。

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地下鉄サリン事件ーーー全駅献花巡り

 私が地下鉄サリン事件の献花に行くようになったのは、2019年からでした。

職場が東京メトロ(事件時は営団地下鉄)の沿線にあったのと、ブログで中川智正さんやオウム真理教事件について書くようになってからです。

最初に献花に行った2019年は仕事終わりに行きました(遠かったので、丸ノ内線中野坂上駅は行かなかった)。

 オフィス街のお花屋さんに立ち寄り、献花に行きたいので花束を作ってほしいとお願いしたところ、当時の地下鉄サリン事件の話になりました。

意外に忘れられている事件と思われていますが、そのようなことはないと思います。

報道が事件のあった毎年3月20日ぐらいしか取り上げないからだと思います。

「あと少し出社時間が早かったら、地下鉄に乗っていた」とかそんな話をしながら、

献花に相応しい花束を作っていただきました。

 昨2020年は、コロナ禍に入っていた頃でした。

 普段は花束を買う習慣のない私も、花束を買う機会にもなるかなあという気持ちで、数日前に、お花屋さんに花束を作ってほしいという予約の電話を入れました。

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このような小さな花束を六束作っていただきました。

 

 祝日でもあったので、空いた地下鉄に乗り、献花台のある駅全駅をまわることができました。

  • 献花台設置駅

  霞ヶ関駅(千代田線・丸ノ内線日比谷線)、駅にパネルもある。

  中野坂上駅丸ノ内線

  神谷町駅日比谷線

  築地駅日比谷線

  八丁堀駅日比谷線

  小伝馬町駅日比谷線

  • 献花要領

  上記各駅の事務室に直接花を持っていき、静かに花を捧げ、記帳をする。

  (写真撮影は断られました)

  あくまで地下鉄サリン事件のあった日のみ、駅務室の一部に白い布を掛けた献花台 を設置するというもの。

 通常業務も忙しいなかで実施しているため、後日花束を駅宛に郵送するというのも駅務を増やしてしまうのと、花束のためにも良くないと思います。

 

 献花台設置駅を改めてみると、日比谷線沿線が多いです。

これは、実行役二人のもったサリン袋が5袋で、それらを上下線両方の実行役がそれぞれ破裂させたため、死者だけでなく、今なお被害に苦しむ人を多数出してしまったということになります。

日比谷線の北千住方面からのった実行犯は、茅場町など金融街を狙ったのではないか、と予測した識者もいましたが、実行犯はそのようなことは一切考えてなかったです。

 指示通りサリンの入った袋に傘を突き刺すというだけを考えていたのでした。

 特に、3袋受け持ったこの人は、教団の方針についていけなかったけれど、実行役にされてしまった以上はやらなければという気持ちで、人より多い3袋を受け持ったのでした。

 指示役(上長)から、一袋多く受け持ってほしいという風に言われて断れなかったことで、三袋を破裂させ、日比谷線をパニックに陥れた・・・。

オウム真理教の恐ろしさについては、事件当時と現在とは違った見方をするようになりました。実行犯の忠実さというのが、ごく普通の組織人と変わらない。

指示通りに忠実に実施したまで、というもので、異論があったとしても意見はしないというのが、今の私と同じだと感じました。

実行犯には、サリン事件全体がどうなるかを見通せた人は誰もいませんでした。

 ただ、「こんなことをやったらミイラ取りがミイラになるだけだ」とこそっと言い合うだけでした。

サリン袋を破裂させた者、サリンを製造した者は死刑、サリン袋を地下鉄で破るものを送迎した者は無期懲役(ただ、他の事件で実行役だった場合は死刑)。

 では、麻原ほか、地下鉄サリン事件の計画をした者たちのその後はどうだったでしょうか。

事件二日前のリムジン謀議にいた者(麻原、村井、井上、遠藤、青山、石川)のうち、

 麻原、井上、遠藤は死刑となり、村井は殺害されて死亡しましたが、青山と石川は逮捕されたものの、この件に関して犯行に加担する発言がないとされて立件されなかったのでした。

 オウム裁判でもそうでしたが、実行役が一番重罪で、事件の計画者が責任を問われなかったことが納得できないです。

 オウム裁判の場合は、実行役がたまたま、高学歴者ばかりだったためか、

「高学歴エリートがなぜ」!という論調で報道されるのがおかしいと思います。

 なぜなら、今の日本の大方の組織では、一流大学を出た人間でもいきなり組織のトップにすることがないからです。

 まず組織の文化に染まらせるために、いろんな仕事をさせていくため、高学歴で入った者でも最下の仕事を数年続けていくこととなることが今も多いはずです。

 地下鉄サリン事件の実行犯で高学歴エリートと言われた人は、入った組織が一流企業ではなく、オウム真理教という組織だったので、そこで生きるために合わせただけだったと思います。ある日、上長の村井から指示を受けて忠実に実行したまで、としかいいようがないと思います。

 計画立案者で逮捕されていた二人がなぜ責任を問われなかったのか。麻原とただリムジンに同乗していただけ、というのもおかしいと思います。リムジンで発言していた村井に指示される実行犯よりも、教団内での立場が上のはずです。

 計画立案者でリムジンに同乗していたけれど、責任に問われなかった二人は、結局地下鉄サリン事件で裁かれず、被害者の声も聞かないまま、世間に戻っています。

 

 「計画立案者は、その計画がどんなに失敗に終わっても責任を問われることがない

 

 地下鉄サリン事件など、オウム真理教事件の裁判を傍聴されていた方々がよく言われるのは、

地下鉄サリン事件以前にオウム真理教強制捜査する機会があったのに、

なぜ警察は地下鉄サリン事件までオウム真理教強制捜査をしなかったのだろう、と言われます。

私もそう思います。

 

せめて、坂本弁護士一家殺害事件(1989年)段階でオウム真理教を捜査してくれていたら、教団武装化も阻止できただろうにと思います。1995年の地下鉄サリン事件までの期間に信徒リンチや拉致事件などもなかっただろうと思います。

地下鉄サリン事件は、我が国が、国民の安全や生命を実は守ってくれない、ということを示してくれた一つだったのではないかと今では思っています。

・・・そんなことを思いながら、また今年も献花に行ってきます。

献花台が設置されているのはあくまで3月20日だけだから・・・。

 

 

 

 

 

2018年7月2日付アンソニー・トゥ博士宛メールの意味

映画「わたしは金正男を殺していない」を鑑賞した感想のつもりで、

当初は3エントリーのつもりでしたが、

なんと、これで6エントリーも、VX事件に関して書くことができました。

書いているうちに、あの話も書きたいと思いながら

いつの間にか増えていきました。

 

本題です。

前回エントリーではオウム真理教VX事件の実行犯・ガルについて、何を考えていたのか

書いてみました。

ガルについては、調べなかったならば「漫画家・小林よしのり氏をVX襲撃しようとした犯人」で終わっていました。

ガルは、元自衛官にしては、珍しくどこでも意見具申できる人だったのだということや、意見具申してそれでもやれと言われて実行に移すところは、軍人向きな人物だったと思います。オウム真理教から二度も脱走しながら麻原は彼を殺そうとはしなかったぐらい。そして現実的なところが。

その人物から見た中川智正さんらは、犯行現場でも落ち着き払っているほど、殺人慣れしているという恐怖感を与えていた側面も知りました。

これで、私個人としてはようやく、中川智正さんが執行直前にトゥ先生に宛てた手紙の意味が少しわかった気がします。

この手紙です。

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 最初この手紙を見た時に、日付に震えました。

7月2日・・・。

もしかして広島拘置所にも死刑執行指揮書が届いた日だったのか、とずっと思っていました。これは今でも分かりません。

トゥ先生もこの手紙については、深く触れず、読者がどう感じるかに任せていた感がありました。

手紙からは、ものすごく焦りと言葉にならないイライラ感が伝わってきました。

これは死刑囚の置かれた特殊な立場だからからかとも思っていたのですが、

これまで6エントリー書いてきてようやくわかった気がしました。

中川智正さんは、金正男氏をVXで殺害した二人の女性に、演技指導していた北朝鮮工作員の立場と、かつての注射器をガルに渡した自分とを重ね合わせて、

あの論文を書いたのだと。

 

かつて中川智正さんは、一審時に

日本の歴史、世界の歴史に汚点として残ることをした、と少しずつ分かってきた。」

(「朝日新聞」2000年3月31日朝刊)と証言しました。

その後も、リチャード・ダンジックアメリカ海軍長官が面会を求めてきたのに応じたときにも、対話を重ねながら、その気持ちを持ち続けて自分たちのやったことを出来る範囲で説明をしてきました。

ダンジック長官は、「オウム真理教は、テロのために生物兵器化学兵器を開発しようとした組織の貴重なケースであり、日本以外の国にとってもテロ対策のために大変重要」

「日本の捜査当局は徹底的に捜査しました。捜査当局は事件に関しては理解していると思います。しかし、生物兵器サリン以外の化学兵器のプログラムに関しては、人が殺されなかったため関心が薄かったと思う。これは刑事訴追の対象ではなかったためです。」(日本では刑事裁判上で有罪確定することに主眼を置いているため、サリンやVXを製造してそれを殺人に用いることの軍事的視点がどうしても欠ける)

 

未解決事件 オウム真理教秘録

未解決事件 オウム真理教秘録

 

 

世界では化学兵器禁止条約があって加盟している国が多いけれど、一方で1990年代の前後数年間のイラクでは、経皮毒性が低い事と、一段階で容易にVXを生成できることを理由としてVX塩酸塩をVXの貯蔵形態の一つとして製造しました。

 

 オウム真理教は、当時そんなイラクの状況も知らないで、麻原の指示でVXを製造し、教団に敵対する人物を殺すのに用いました。駐車場経営者の殺害に失敗したときのVXの形態が、イラクのVXの貯蔵形態でもあった「VX塩酸塩」でした。

オウム真理教は、VX塩酸塩で駐車場経営者の殺害に失敗したあと、今度はVXを完成させたものを注射器につめて、それを相手にひっかければ殺せるとしていました。

ただし、完成したVXを保管し続けるのは難しい・・・。

(VX塩酸塩ならば保管に適している)

VX事件がガルや井上嘉浩さんの供述によって明らかになると、日本では刑事裁判として問題にはなったけれど、諸外国では、見ないふりをして、VXをどのようにして製造し、殺害に用いたのかなど、小さいことでもVXに関してのことを日本から知ろうとしています。(テロに関与した人物は普通は語りたがらないので、それを語りたいなどという人物は諸外国にとって貴重な情報源になり得るのです)。

中川智正さんは、一審時でしみじみ証言した「世界の歴史に恥になることをした」ということを、確定死刑囚生活全般を通して、さらに深く実感したのでしょう。

前半は、高橋克也被告の裁判に出廷したことと、後半は北朝鮮による金正男氏の暗殺事件を獄中から化学的に解明することを通して。

その深さは、中川智正さんただ一人しか分からないものだったと思います。

 

私は、最初、オウムの死刑囚が獄中から化学論文を書いたという記事に接した時、

さすが高学歴らしいとか、これで死刑執行されないかもとか感じたものでしたが、

そのような日本での軽薄な反応に全力でノーというべく、中川智正さんは7月2日の手紙を書いたのです。

私は中川さんがVX事件にどのように関与していたなど、あまり知りませんでした。

VXを製造していたのかぐらいです。

VX製造はしておらず、医療役と実行犯に注射器を渡してみている役という、

クアラルンプール空港でビデオに映りながらいつのまにか北朝鮮に帰国していると思われている男こそ、北朝鮮の「中川智正」だったのです。

その北朝鮮の「中川智正」役が、果たしてどのようにしてVXの知識を身に着けたのか?そんなところも想像しながら論文を書く死刑囚など世界中探してもいないと思います。この困難さと、自らの犯した罪の大きさを化学論文の中に出して世に問うた上で、

自分は、日本における罪の償いでもある、絞首刑を受けるための日々を送ってきたと。

論文執筆が死刑執行のタイミングには何も影響がないこと。

むしろ自分が論文を書いたことで、自分の犯した犯罪の意義を、より深く思い知ることとなってしまい、苦しかっただろうと思います。

遠藤誠一さんのように黙っていたほうが、実は自分の死刑囚生活における精神衛生上にも楽だったと思います。

 

北朝鮮に本当にオウム真理教を研究する部署があるかどうかはわからないけれど、

金正男氏の暗殺の件では、オウム真理教の犯したVX事件を体系的に研究していなければ、VXの前段階の物質を持ち込んで、ベビーオイルに溶かして、金正男氏の顔面でVXを合成して殺すという方法を思いつかないでしょう。

そのきっかけを与えてしまったかつての自分たちの罪は死んでも償いきれない・・・。

 

おそらくそんなところで、執行後2年が経とうとする2020年3月

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www.tokyo-np.co.jp

テロを思いとどまってほしい、自分は遅かったけれど・・・という生前の英文メッセージを、ご遺族や弁護士の方が日本のマスコミに出したのだと思います。

年月日は書いてないので、いつこのような英文を書いたのかは分からないです。

25年という歳月を経て、確定死刑囚の執行直前になって、中川さんが最後にふりしぼって言いたかったことが「被害者だけではなく、加害者も出したくない」という思いでした。

 

オウム真理教VX殺害事件の実行犯・ガル

今回のエントリーでは、

 オウム真理教のVX事件(駐車場経営者・会社員殺害・オウム真理教被害者の会会長)時に、実行犯であった「ガル」がどんな人物であったかについて書いていきます。

「ガル」はすでに刑期を終えて出所しています。

 実名は、書籍などによってはそのまま出ています。

私は事件当時から実名は知っていました。ホーリーネームは知りませんでしたが。

小林よしのりゴーマニズム宣言』を読んでいたからです。

小林よしのり氏もまた、坂本弁護士事件とプルシャの関係を漫画に描いたために、オウム真理教から殺されそうになった一人でした。彼をVXで殺害しようとしたのが、ガルであったのです。

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ゴーマニズム宣言9 (幻冬舎文庫)

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ガルが、どのような人間であったのかということは、元自衛官であったという以外は、当時知りませんでした。

江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記1」には、ガルの第三回被告人質問での様子が記載されています。

 

「オウム真理教」裁判傍聴記 1 (文春e-book)
 

 ガルは、高卒後陸上自衛隊に入隊し、三年で除隊後、警備会社で働いていました。

オウム真理教と出会ったのは、自衛隊を辞めた1987年頃なので、古参信徒でもありました。高校時代から仏教やヨーガに興味があったので、修行してみたいと、軽い気持ちで入信したとのことです。

彼は二度脱走をしています。

一度目は、出家後配属された建築班での過酷な労働に耐えかねてです。

上九一色村サティアン建設作業では一日15時間労働で休日もなく、作業中に転落して骨折しても配慮がないことなどが積み重なり、逃走をしたら、駅でオウムの上司につかまり、説得されて戻りました。

二度目は、1993年10月、深夜オウム施設を抜け出し、関西の実家に戻りました。

「亀戸の異臭事件の前に、何か特殊なプラント装置の組み立てをさせられましたが、幹部は目的を説明してくれない。訳の分からないワークに関与させられていることに疑問を持った」とのことです。

教団は実家に来るかもしれない、と感じた彼は、その前に自分で上京し、都内の警備会社に就職しました。オウム真理教は、何と都内の警備会社に勤めているガルを探し出し、連れ戻しに来たのでした。

亀戸道場に連れてこられ、そこには麻原がいました。

ガルは直接麻原に「教団に戻る気はありません。ガードマンのような仕事をします」と訣別宣言をしたのですが、麻原は彼に対して

「それなら、教団でそういう仕事をやればいいじゃないか。教団の関連会社の社員ということで給料だしてやる」といい、月50万円の給料を提示され、

 さらに以前ガルが麻原に提出していたテロ対策の報告書の内容を知っているらしく、「お前が考えるようにやってみたらどうか」と言ったという。

麻原は脱会信徒の一人であったガルを責めず、社員になってくれといい、テロ対策などの能力を買っているという姿勢を見せてくれた・・・。

 ガルにとっては、報告書を当時上司であった早川紀代秀さんに見せたら

「下っ端のお前が出過ぎている」と𠮟りつけられたのに、麻原は自分の能力を買ってくれていることが嬉しかったのだろうと思います。

麻原は、人によって硬軟使い分けるのが上手い人物だったのです。

ガルは、出家扱いはしない約束で教団に戻りましたが、それはなし崩し的に反故にされ、元自衛官や武道経験者の信徒たちにトレーニングするワークをしていましたが、

省庁制発足によって、彼らは自動的に新實智光をトップとする自治省に配属させられ、ガルは麻原専属のボディガードとなりました。この時に「ガル・アニーカッタ・ムッタ」(グルを守る男)というホーリーネームを与えられたのでした。

 その後、ガルは、仲のいい信徒から、逆さづりや熱湯に漬けられたりして亡くなっている信徒がいることを教えられたり、自身も記憶を失って赤ん坊のようになってしまった女性信徒を直接見ていました。

 教団は給料を出すといったのに反故にするし、逃げればまた追われることも体験的にわかっている。結局ズルズルと教団に居続けるしかなかったのでした。

そんな中で、1994年11月26日、駐車場経営者VX襲撃事件(1回目)の実行犯となってしまいます。井上嘉浩の部下から呼び出されて行った先が、駐車場経営者の家だったのでした。

そこには、井上嘉浩、新實智光、中川智正がいて、「教団の秘密を握った人物を倒す手伝いをしてほしい」「危険なものだから取り扱いに注意するように」とだけ言われて

注射器を手渡されました。

この中にはVXが入っていたのですが、ガルは「青酸化合物か農薬の原液が入っている」と思っていたそうです。

ガルにとって不気味だったのは、現場での中川智正らの落ち着き払った態度でした。

「あまりに平然としていて、場慣れしている感じでした。

 かなり人を殺したりしているんだなと思い、

『自分も逆らったら殺される』とこわくなりました」

と被告人質問で証言しています。

この時のガルの立場は、井上嘉浩が失敗したときの代わりの実行役という立場でした。

井上嘉浩さんは、実行役としてよりは、現場指揮者としての能力を麻原から買われていたとは、のちに新實智光さんが証言しています。

(麻原第209回裁判、2001年10月5日)

この駐車場経営者VX襲撃事件では、VXの合成が不完全(VX塩酸塩のまま)であったため失敗に終わりましたが、その三日後にまた、中川らから「今回は効果があるはずだ」とだけ説明を受けて第二回目の襲撃の実行役をさせられます。

中川さんは医療的指示役だったから、VXが完成していることを知って、「今回は効果があるはずだ」とガルに言ったのでしょう。ガルは、前回に比べてさらっとした液が、駐車場経営者の皮膚について流れたのを見たとのこと。

この数日後、今度は大阪市内に呼び出され、会社員を襲撃することを指示されます。

ガルは「風邪で体調が悪いので、誰か代わってもらえないか」と新實智光に言ったが、「実行できるのはガルしかいない。何も考えずにやるのが尊師の意思だから」と言われたため断れなかったとのことでした。

ガルは、自分と同年の会社員男性の背後に近づいて注射器を振り上げたところ、会社員男性が「痛えー」と叫び、追いかけてきた途中で男性が倒れました。

ガルはこの時、注射器の針を直接会社員男性に刺してしまったのでした。

その後、中川智正から一言「(会社員男性は)死んだよ」と。

ガルは「自分はもう逃げられない。破れかぶれ、自暴自棄という気持ちだった」とのことです。

そして、1994年年末に、ガルは新實智光から呼び出されて、今度はオウム真理教被害者の会会長を襲撃すると伝えられます。

ガルは、その時に「永岡さんは教団内外によく知られた人で、変死すれば教団が疑われる。尊師に考え直してもらえないですか」と提言したが、新實は「何も考えずに実行するのが尊師の意思」と一点張りでした。

 

ところで、VX襲撃事件はなぜ発覚したのでしょうか。

井上嘉浩から逃走資金を渡されて、フランスに渡航し傭兵になろうとしたが、虚しくなって帰国し旅券法違反で逮捕されたガルが「教団幹部の指示で永岡さん(オウム真理教被害者の会会長)に薬物をかけた」と1995年6月19日までに自供したからです。

(「読売新聞」1995年6月20日東京朝刊)

ガルがVX事件について自供したのには、林郁夫の影響があったとのことです。

「彼は彼なりの責任の取り方をしている。そのことに感動というか、思うところがありました。」

ただ、ガルは薬物が何だかは分かってはいませんでしたが、自供したところ、

取調の刑事から「バカだなあ、そんなこと誰もしらないのに。国松警視庁長官事件を隠すために言っているのか」と勘繰られたと。

ガルが自供するまでは、オウム真理教被害者の会会長・永岡氏は警察庁から自殺未遂とされていたのでした。殺人容疑未遂で告訴しても聞いてもらえず、逆に自殺未遂と判定されてしまっていたのでした。

ガルの自供後、永岡氏の血液から農薬に使われるスミチオンという有機リン系の薬物が検出されたことや、視界が狭くなるなどサリン中毒に似た症状もあったことなどもあり、立件対象となったのでした。

VX事件は、実行犯が自供しなければ、警察の取調官からも「バカだなあ、誰もしらないのに」で済まされてしまう扱いだったかもしれませんでした。

ガルは、麻原第139回~第141回法廷に出廷し(1999年。すでに服役中)、「幹部の目的はあくまで殺害」と言い切り、自分は教団幹部(井上嘉浩・新實智光・中川智正)らに殺人の道具として使われたと証言しました。

裁判長が「(麻原に)最後に何か言っておきたいことは」と水を向けると

「幹部たちの態度にはものすごく腹が立っていた。特に新実から昇格(事件後にステージが上がった)を告げられた時は、あんなことで僕が喜ぶと思っているのかと、冒涜された気持ちだった。新実は上司だが、何も説明もなく犯行の時だけ僕を呼び出して、終わったら『ご苦労さん』だけ。幹部からみたら僕は武器の一種だったんでしょう」

松本には何を言っても無駄ですが、『あきらめろよ」と一言言っていやりたいです」と話して証言を締めくくりました。その様子に麻原は被告席でふてくされたように顔を横に向けていたのでした。

中川智正さんはVX事件について語る時、ガルについては言葉少なである感じがしました。

アンソニー・トゥ先生宛2014年7月7日付のメールでは

「VXの実行犯はガル(原文は実名)です。VX事件を自首したため、無期懲役にもなっていません。高橋克也さんもこの事件に関わっていますが、役割は実行犯ではなく、調査役や運転手です。ガルは注射器の針と針のキャップを外して、注射器から(VXを、死亡した会社員に)かけようとしたのですが、彼が外したのは注射器のキャップだけでした。必死になっていたため、ガルは気づかなかったのです。」と事件の時だけのガルを語るにとどめ、人間性については触れていません。

 

 

中川智正さんら幹部としても、ガルは自分たちの武器代わりとして使いやすかっただけの人物だったようです。

中川智正さんはVX事件現場で、VXの威力を知りながら、武器代わりの信徒に内容を説明せず注射器を使うことだけを指示していました。これは、金正男氏の暗殺時の

クアラルンプール空港のビデオには映ったものの姿を消した工作員と同じ立場だった、ということだと思います。

中川智正さんを知る上では、当時は自他ともに「直接殺人に手を下した経験のある者」であった側面をも見る必要があると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オウム真理教のVX事件

 麻原は、VXが完成すると、教団に敵対すると判断した人物を個別に殺害するために

VXを使用することを実行犯に命じました。

期間は1994年9月、ちょうどVXが完成した頃から1995年初までです。

1995年元旦の読売新聞に、オウム真理教教団施設周辺でサリン残留物が検出されたというスクープ記事が出たため、強制捜査に備えて貯蔵されていた毒物を処分したからです。被害者の会会長襲撃に使用したVXは今川アジト(杉並区)の冷蔵庫に保管したものでした。

麻原はこんな教団が混乱している中でも、オウム真理教被害者の会会長を襲撃することだけはやめなかったのでした。その執念は凄まじい・・・。

サリンの処分と被害者の会会長殺害の両方に関わったのが中川智正でした。

 

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オウム真理教の起こしたVX事件4件を表にしたのが上図です。

素人目で、この図を作りながら中川智正さんの論文(「オウム死刑囚が見た金正男氏殺害事件ーVXを素手で扱った実行犯はなぜ無事だったのか」)を読んでみると、

 

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Youtube動画を撮影するとだまして、ベトナムインドネシア女性を実行犯に仕立て上げた北朝鮮工作員らは、VXの扱いについて、オウム真理教の失敗、限界を冷静に分析し、自分たちは確実に狙いを定めてVXを用いた殺人ができるぐらいになっていたのではないかと思いました。

オウム真理教の失敗、限界は、殺害方法がワンパターンだったことです。

滝本弁護士襲撃の際に、ポマードにVXを混ぜたのは、金正男氏殺害の時にベビーオイル状の液体を塗りつける方法に近かったのですが、効果はありませんでした。

滝本弁護士のブログに写真がありました

滝本弁護士は手袋をはめていたのでVXを触れなかったというのも大きかったと思います。

その後、オウム真理教は、完成させてしまったVXを注射筒に入れて持ち運びをするという方法をとっていました。散布してしまったら一週間ほどで効果は残らなくなってしまう上、事件を起こした時期が冬であったので、VXの性質をある程度理解していた中川さんとしては心配だったかもしれません。麻原の指示通りできるかどうか。

 基本は、「ホッホ ヒュッ ホッホ」のタイミングでVXの入った注射器を相手にひっかけろというだけで、実行者は、ベトナム女性やインドネシア女性同様、VXを知らないまま、指示通り注射器を持って行動したにすぎないこととなります。

ベトナム女性やインドネシア女性と、オウム真理教の実行犯の違いは、オウム真理教の実行犯は暗殺の意図を理解していたということです。

 オウム真理教のVX事件(立件されなかった滝本弁護士の件は違うが)での指揮役は

井上嘉浩で、他に医療役が中川智正、新實智光、高橋克也(先日無期懲役判決が下される)などで、実行役は元自衛官の「ガル」(彼は2017年に刑期満了で出所しています。本名はすぐに判明しますが、以後彼を「ガル」として記します。)

指揮役の井上嘉浩は、駐車場経営者VX襲撃事件時に麻原から

これはVXの実験だ。効くかどうか判らないから駐車場経営者にVXをかけて確かめろ。実行はアーナンダ、お前がやれ。」と指示されています。VXの実験でもあり、殺人指示でもありました。その時に使われたVXは完成前の前段階である「VX塩酸塩」であったため、未遂に終わった(1994年11月27日)のですが、12月2日には完成したVXを用いて頭部を襲撃したため、駐車場経営者は痙攣をおこして入院することとなりました。

1995年1月4日、オウム真理教被害者の会会長・永岡弘行氏襲撃の際は、今川アジト(杉並区)に保管していたVXを、実行犯「ガル」が永岡氏のジャンパーに掛けたので、あとでそのジャンパーをさわった永岡氏の妻もVX中毒になったとのことでした。

 

たらればですが・・・

駐車場経営者の1回目の時点で、VXを事件現場で合成させるということを思いついていたらば・・・

ポマードとVXを混ぜるならば、目を初めから狙うことと定めてベビーオイルとVXにしてたらば・・・

もっと日本でオウム真理教による原因不明の殺害事件があったはずです。

中川智正さんとしたら、自分たちの犯罪が、自分たちが思う以上に他国では分析の対象とされていることが確かであり、北朝鮮に至っては、オウム真理教の事件を分析したうえで、さらにVXを悪用した事件を犯していることが恐ろしいと感じたと思います。

自分たちの犯した犯罪が世界レベルで学習されている、という恐ろしさを痛感していたのはオウム死刑囚・無期懲役含めて中川智正さん以外にはいなかったと思います。

指揮役の井上嘉浩さんは、VXは人にひっかければ死ぬぐらいの程度でしか理解していなかったと思います。

例えば、麻原が女性信徒と仲良く騒いでいたことに憤りを覚えて「(麻原に)VXをひっかけてやればよかった」と思ったとの供述より。

確定死刑囚になってから自分の関与した事件を中川さんのように追求できる能力や精神的ゆとりもなかったはずです。

 

中川智正さんはリチャード・ダンチック元アメリカ海軍長官からオウム真理教の犯罪は、世界においてはテロ事件の模範にされるだろうと指摘され、長官からの質問に答えてきました。

 その縁でアンソニー・トゥ先生と死刑確定直前につながり、

 確定死刑囚生活が始まってすぐに、VX事件に関与した二人が出頭したことで、彼らの裁判にも死刑囚として出廷し証言をするなど、常に自分の犯した事件については昨日のことのように思い出す機会が多かったと思います。

その裁判が終わるや、今度は金正男氏の殺害事件が起こり、マレーシア政府から国連通じて照会をうけることとなってしまいました。

 確定死刑囚生活が、かつて起こしたVX事件の研究に費やされ、ある時はVX殺人事件の実行犯の立場に、ベトナム女性やインドネシア女性にベビーオイル状の液体を塗る練習をさせる指示役の立場に自分の身を置いたりし、化学の研究をする・・・。

通常、我々が考えるような確定死刑囚生活とは質の異なるレベルで、自らの犯した事件と向き合わざるを得なかったのではないでしょうか。

よく、気が狂わなかったと思います。

確定死刑囚は、いつか必ず来る死刑執行命令まで、心身ともに平穏であるよう管理されているので、中川さんが刑務官の前では研究を中断されないよう、研究のことを考えているときでも表情にださないよう、苦労していたのではないかなと思うのです。

自分が研究し続けることが償いだと思って・・・。

 

未解決事件 オウム真理教秘録

未解決事件 オウム真理教秘録