僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた」

私はこの証言を書物で読んだのは
藤田庄市氏のこの著書内でした。

 

宗教事件の内側: 精神を呪縛される人びと

中川さんが死刑になった直後に、一番欲しい情報が掲載されていた本で、

今も手許においています。

新宿駅青酸ガス事件のときに共犯者であったヤスさん(林泰男)の証言ですが、
最初にヤスさんが法廷でこの話をしたのは、中川公判に呼ばれたからではなかった
のです。それを前回のブログでは誤解していました。

ヤスさんは、当時の共犯者の様子を答えていただけで、中川さんについて
何か有利になるとかそういうことを考えてこの話をしたわけではなかったのです。

今回のエントリーでは、中川さんが逮捕される前、新宿駅青酸ガス事件の時の
このヤスさんの言葉を読んでいきたいと思います。

このヤスさんの証言は、新宿駅青酸ガス事件共犯者部下2名(刑期満了者)の
法廷(1997年7月22日)でのものでした。

ヤスさんは、部下二名は犯行に加担はしたが、深い事情はしらなかったと述べて、
二人に詫びました。その上で、教団が強制捜査を受けている中での生活状況を
証言したのでした。

この部下二名を犯行に巻き込んでしまったのは、井上嘉浩・中川智正林泰男
所在を探されている立場だったから、自由な活動ができなかったためだと。

新宿駅青酸ガス事件は一回目が失敗し、5月3日の二回目の実行の際、ヤスさんはまた
自分がやらされるのかと嫌な表情をしたら、それを見ていた中川さんが、
「今度の装置は複雑だから、ワシがやるわ」と

※ワシ(儂)
当時のオウム真理教幹部の一部は、自分のことをワシ(儂)と呼んでいたらしいです。
これは元信徒・MPプロジェクト氏(@P48338092)のブログにあります
 

中川さんもこの時はワシを使っていたようです。

中川さんが仕掛け役をやることにはなったけれど、新宿駅までこの部下2名とヤスさんと女性信徒がついていくこととなりました。

地下鉄サリン事件後ではあったのですが、中川さんたち一行は、京王線に乗車して(切符に指紋をつけないようにして)移動していたのが驚きです。
個人的には地下鉄サリン事件では被害に遭遇しなかったものの、
当時の通学路線の一つが京王線でもあったため、ニアミスしてなかっただろうか?
と一瞬思ってしまいました。

それはともかく、ヤスさんから「指紋つけるな」と注意を受けた部下信徒が、
自分が犯罪に関与しているのかもと思ったのか、精神的におかしくなってしまった
ようです。彼はアジトに一人帰されました。

それで、今回のタイトル「中川君は怯えていました」
これは、5月15日に井上嘉浩・豊田亨が今のあきる野市あたりで逮捕され

翌日に麻原彰晃が逮捕されてしまったので、
八王子アジトにいた中川さんは、永福アジトに転がり込んで来たのでした。

 

以下の証言は江川紹子氏の著書の方が詳細でした。

「オウム真理教」裁判傍聴記 2 (文春e-book)

 

「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた。

夜も眠れないようで、ガバッ起きて窓の外を見たりしていた。

中川君は、『自分のしたことに耐えられない。これ以上悪業を積みたくない』と泣きながら僕(ヤスさん)に言っていた。そこへ、諜報省次官の某君が入って来て

『何か作ってないから、心が不安定な状態になるんだよ』と言い出した。

中川もそれに同調し、もう一度(何かを作るために)薬品を取りに行くことになりました」

 

ヤスさんは、中川さんのこの様子が恐ろしかったようです。

「せっかく心の中の良心が出てきたのが、諜報省次官(信徒)の一言で元の精神状態に戻ってしまう」と。

 

藤田庄市氏の著書によると、この林泰男証言は、中川公判の控訴審で重視されました。

諜報省次官は、中川に向かって「尊師を意識して」と元気づけたら、突然「これから頑張る」と元気になったとのこと。その急変が

恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。これまで長く話して心を見せあっていたのに、中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのを感じて怖い感じがしました。

 

私もこの話を一番最初に目にした時、ぞくっとしました。

それと同時に、中川さんは他の信徒とは違う何かがあるとも思いました。

前回のエントリーでは杉本繁郎さんと麻原の法廷でのやり取りを長々と紹介しましたが、杉本さんと中川さんの違いを知ってほしかったからです。

杉本さんも古参信徒だったから、麻原とは長い付き合いだったと証言していますが、

杉本さんは裁判中に麻原に「あなたはグルなんですか」と言えていました。

それでも本人とすれば、刑務所に収監されて、オウムとの生活をきっぱり断絶して、

オウムの考え方から解放されるのに21年もかかったということです。

法廷のやり取りだけで、杉本・豊田亨ならば教団と離れられている、と我々は思ってしまいがちですが、一度精神的に捕らわれた状態になると、それを断ち切るのに十年単位の長い期間を要するのです。

ましてや、中川さんは杉本さんのようにはなれないでしょう。

それは杉本さんが無期懲役で、中川さんは死刑執行されてしまったからではないと思います。

中川さんは、麻原と精神的な共依存にあったのではないでしょうか

おそらく、東京拘置所の特別配慮があったから、死刑囚として状態がよいまま(良くはないでしょうが・・・)広島に移送されて死刑執行まで行ったと思います。

 

それに気づくきっかけを藤田庄市氏の著書で得ることが出来ました。

 

まだ全体としては中川さんの一審が全く終わっていないのですが、この藤田庄市氏の著書に掲載されている中川の「麻原化」について、紹介したいと思います。

控訴審の時には、法皇内庁で中川の部下であった女性信徒が証言したようです。

「麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかがわからず不気味でした」

ダブって見えたのはいつかについては、

「部下になった1994年。中川さんと話しているとき、背後に麻原がいるようにダブって見えました。意識として(麻原を)感じました。中川さんは麻原の影が重なっている。一対一で話す感覚ではありませんでした。」

「よくわからない。どうなっているんだと常に思っていました」

 

もう一人、法皇内庁時代の部下も

「中川の強い印象エピソードは?」と問われて

「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩していた」

「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色が悪い」のだけど、麻原の部屋に入り、出てくるときは回復して調子良くなっていることが何回もありました。

 

今回、このブログを書くにあたり、出家以降の中川さんの写真を集めたので、それを並べたのが上です。

顔が同一人物かどうかわからないぐらい、差があるように私も思いました。

むくみが酷い(左上)とか顔色が悪いものが多いです。

この元信徒女性が「視覚的に麻原と会って体調が変わったのがわかるのは中川さんだけでした」と言っているように、麻原と会って体調が良くなった信徒は他にいるけれど、

中川さんのそれは違うのだとのこと。

 

「中川さんは神秘体験イコール日常生活と双方が重なっていました。意識がどうなっているのかわかりませんでした。」

「中川さんは前世や来世の話を良くして、その世界を体験として、事実として知っている感じでした」

「神秘体験の波に中川さんは苦しそうにしており、助けが要るように見えた」

 

中川さんのそんな状態を助けた一人が、村井秀夫さんだったのではないか?とも思えます。それは、以前の記事

で触れたように、地下鉄サリン事件の少し前に、中川を修行に入れて(他人から見て暴力だとしても)麻原の体調をよくしてやろうとしていた。

中川がサリン製造するときに、ヘッドギアを付けないで作業していることを𠮟ったことなどから。

 

麻原、中川、村井の三者の関係について、もっと中川さんから証言を聞きたかったです。なぜ、教団から逃げる発想がなかったのか、その一端が少しわかってくるかもしれないからです。

 

 

「あなたは本当にグルなんですか」

昨日に引き続きエントリーです。

タイトル「あなたは本当にグルなんですか」。

これは、1999年11月10日の杉本繫郎・豊田亨の公判にて、証人出廷して、不規則発言をし続けた麻原に対し、杉本繫郎・豊田亨の二人がそれぞれ自分たちの思いをぶつけた時のことです。

人間関係を図にしました。

 

本当はここを中心にオウム裁判を描いたら、当時テレビでオウム裁判の報道に接していた人も、オウム事件を知らない人もわかりやすいものとなるのではないかと思います。

資料は、降幡賢一氏『オウム法廷10 地下鉄サリンの実行犯』

オウム法廷〈10〉地下鉄サリンの「実行犯」たち (朝日文庫)

Amazonの古本で、3500円。

再刊されない本は高いですね。そして『オウム法廷』シリーズは図書館にも置いていないことが多いので、今回はその問答の様子を、長くなりますが、紹介していきたいと思います。

 

法廷での麻原彰晃の様子は、青沼陽一郎氏の著書に詳しいです。

オウム裁判傍笑記 (小学館文庫)

動画でもありますので、そちらも掲載します。

 

 

動画のように不規則発言をし、自分は無罪ですべて弟子がやったことだと、英語を使いながら主張していました。

 

1999年9月22日の杉本繫郎・豊田亨公判から2回出廷したのですが、9月の時に、すでに

杉本繫郎さんは天界にいるとか、豊田亨さんは中華人民共和国に生まれ変わっているなどと発言をしていました。

 

この日は、麻原彰晃の不規則発言で午後5時になりました。公判が終わろうとした時に、被告席の杉本繫郎さんが麻原に対し、問いかけを始めました。

それから約1時間の間のやりとりになります。このシーンだけでも知った上で、さらに昨日のエントリーで紹介した杉本繫郎さんの手記を読むのに役立ててほしいです。

 

杉本:「杉本から伺います。杉本はわかりますか。」
麻原:「ガンポパ正悟・・・、ガンポパの声が出てますが。」
杉本:「ガンポパということも分かりますね。それともあれですか、天界の杉本と言っ  たほうがよろしいですか。」
麻原:「・・・・天界、いいでしょう。天界の杉本君しかわかりません、私にとっては」
杉本:「じゃ、前回の証言(注:1999年9月22日)あなたの空中浮揚の写真の写真のことで、弁護人から聞かれましたね。誰が撮ったのかというふうに、ご記憶ありますか。」
麻原:「空中浮揚については、杉本君が1986年に見てるはずですから、それを順に見たものを投影してください」
(中略)
麻原:「(英語での説明をやめようとしない・・・)」


杉本:「質問がかわるんですけれども、何度か質問が出た地下鉄サリン事件で、井上嘉浩君が、地下鉄サリン事件を持ち込んだ話だとか、あるいは井上嘉浩君が暴走したということを今日申しましたね。あなたがそうおっしゃっている根拠は何なんですか。

(中略)それで遠藤君は、あなたに条件が整えばサリンが出来るのではないかと答えたと証言してるそうですけれども、あなたの口から遠藤君という名前は出てきませんね。井上君、あるいは村井さんですね。なぜ井上君なんでしょうか。」


麻原:「えっ、何がでしょうか」


杉本:「地下鉄サリン事件の話の中で、遠藤さんの話は出てこないけれども、井上嘉浩君と村井秀夫さんの名前が出てくると。それは何らかの根拠があったからあなたはその人たちの名前を出しているんじゃないかと思うんですけれども、その根拠は何なのかということがお聞きしたいんです。」


麻原:「(小声で何事かブツブツ)」


杉本:「例えば、あなたの法廷で、中川君が、井上君にジフロを預けていたというような証言をなさったそうなんだけれども、それが根拠になっているのか、あるいは井上君のほうから具体的な話があって、あなたの記憶の中に残っているのかということがお聞きしたいんですよ。あなたの記憶ではどうですか。単に中川君があなたの法廷で言ったことを前提にしているのか、それともリムジンの中で井上君が何らかの発言をしたから、井上君が暴走したということをあなたが言っているのか、どちらなんでしょうか。」
麻原:「(英語で説明。何も言うことが出来ないという意味のことを言い、最後に)アイム・ソーリー」
杉本:「すみませんということですか。よく答えられないということですね。それは、じゃあ」
麻原:「答えられないと、使っちゃいましたから・・・」


杉本:「私とあなたは割と長くお付き合いがありましたね。運転手とか私がやっていたから。私が運転手をやっていたことは覚えていますね。」
麻原:「何が覚えてるんだね・・・・」


杉本:「あなたが何かを言うときは必ず根拠があるはずなんですよ。だから何らかの会話がそこであったんではないかと思えるんだけれども、あなたの記憶ではどうですか。」
麻原:「(意味不明ブツブツ)」
杉本:「特に記憶はよみがえってきませんか。それとも今記憶を呼び出していらっしゃるのか、どちらですか。」
麻原:「(ブツブツ)」
(このあたりで豊田亨が盛んに小首を振っている)


杉本:「じゃ、もうそれで結構です。それで、先ほど弁護人の方から冨田さん(元信徒。麻原の命令により杉本らがリンチ殺害した人)を殺害したことを私が報告したということを弁護人の質問でお答えになったんですけれども、あなたは場面を混同してらっしゃいませんか。私が報告したのは、地下鉄サリン事件の後にあなたの元に帰ったときに、新實智光があなたに報告していたんだけれども、ちょっとろれつが回らない答えをしてしまったので、私が代わりに答えたと。多摩川で衣類を燃やしていたから遅くなりましたというふうに答えたその場面と、冨田さんのことを報告した場面とをあなたは混同していませんか」
麻原:「(無言で、チッチッと音を立てる)」
杉本:「どうですか、思い出せますか」
麻原:「(無言)・・・・・」


杉本:「思い出せないんでしたらもう結構です。もうあんまり時間もないので用意していたこともあまりお聞きしませんでしたけれども、あなたは前回、教団関係者が地下鉄サリン事件に関与したことを認める証言をしましたね。そのことによって、信者の間に動揺が広がったというニュースは、拘置所のラジオのニュースで知ってますね」
麻原:「(何かブツブツ)」
杉本:「あなたは、前回、自分のことをオウム真理教の代表かつ教祖と答えていますけれども、あなたは今現在、いまだに自分が教祖のつもりでいらっしゃるんですか」
麻原:「私ですか」
杉本:「・・・はい」
麻原:「それは、オウム真理教が存在していれば教祖ですね、本当のオウム真理教があれば」
杉本:「じゃ、存在していなければもう教祖じゃないということですか」
麻原:「存在してないなら教祖とは言わないですね」
杉本:「でも、もう既にあなたがそういう発言する前から教団関係者から切り捨てられてるんじゃないですか。」
麻原:「・・・・」


杉本:「なぜかと言えばね、あなたが二年半前に、地下鉄サリン事件は村井さんと井上君に押し切られる形になったという発言をしてますね。もし本当に教団の関係者に動揺が走るのであれば、そのときでなければいけなかったんじゃないですか」
麻原:「うんと、それは宗教ですね。つまり。(再び英語の説明を始める)」
杉本:「それはもう前回、わかりましたから、お聞きしていますから」
麻原:「(構わず英語説明)・・・」
杉本:「それで、教団関係者においては、意見陳述であろうが、証人としての証言であろうが、あなたの尊師としての言葉ですよね。その言葉に違いがあったのは何故だと思いますか。」
麻原:「うん?何でしょうか」
杉本:「意見陳述の際にあなたが発言したことと、前回この法廷であなたが発言したこととの内容はほぼ同じなわけでしょう。にもかかわらず、教団関係者の間に反応が違ったというのはどういうことなのかお聞きしているんですよ」
麻原:「わかんないな」

(中略)
杉本:「要するに、あなたは教祖としての名前があっても、その言葉の力というものはもう既に失ってるということですよ。そのことにあなたは気づかないのかとお聞きしているんです。」
麻原:「(英語説明に変える)」
杉本:「今の教団の幹部の者たちにとっては、一部の者たちにとっては、あなたよりもあなたの教義の方が大事だと、だからこそ今回は反応が違ったんだと、そうあなたは考えませんか。」
麻原:「(小声でブツブツ)・・・」
杉本:「言っていることがわかりませんか」
麻原:「うん」
杉本:「脳が破壊されているから、言っていることがわからないんですか」
麻原:「・・・えっ、オウム、・・・悲しくなってくるよ、オウム、オウム・・・」
杉本:「あなたは最終解脱なさったわけですね」
麻原:「わかった。・・・うん・・・」
(中略)
杉本:「あなたね、いい加減にもう目を覚まして現実というものを認識したらどうですか。いつまでも最終解脱者だとか、教祖とかいう幻影に溺れててもしょうがないでしょう。
麻原:「・・・・(突然沈黙する)・・・・」
(中略)
杉本:「それから、あなたご自身、被害者の方々に対してどう考えているんですか。」
麻原:「(腹を立てた様子で杉本に向って)おい、でもあんまりペラペラ言うと・・・私に対する。お前、黙ってた方がいいと思うけどな。(中略)遠藤にいわれて私に対して始めにLSD使っただろう。私が知らないと思っているのか、そういうことを」
(中略)
杉本:「あなたが事件に関与したかどうかは別として、自分の弟子が事件に関与したことについて、どう考えてらっしゃるんですか。」
麻原:「・・・・・」


杉本:「あなたはかつて、他の苦しみがわからなければ、人を救うことは出来ない。あるいは他を救済することはできないと、私たちにも説いて聞かせてくれましたね。今現在あなたは、地下鉄サリン事件、あるいは一連の事件の被害者の方々の苦しみとか悲しみ、そしてそして怒りというものがわからないんですか。あなたの教義では、ステージが高くなればなるほど、他の苦しみに対して敏感になるんじゃなかったんですか
麻原:「・・・(左手でひげをしごきながら、無言)」
杉本:「そういうことを真剣に考えたことが、あなた、ありますか。もし、あなたが最終解脱者だとしたならば、誰よりも人の苦しみというものがわかるはずでしょう。それがなぜわからないんですか、あなたは。
あなたは救世主だったはずですよね。」
麻原:「・・・・・」
杉本:「また、あなたがこの世に生をうけたのは、生きる者を苦しみから救うためだったのはないんですか。」
麻原:「・・・しましたよ・・・・うん」
杉本:「だったら、あなたから被害者の方々に対して、何か言うべきことがあるんじゃないですか。」
麻原:「(突然)ゴー・ツー・ヘブン(と叫んで、英語説明を始める)」
杉本:「私も豊田君も同じ気持ちだと思うんだけれども、今現在も被害者の方々に対して、何と申し上げていいのか、その言葉すら見つけられないんですよ」
麻原:「(英語説明の続き)」
杉本:「私たちは、どうすれば被害者の方々に対して償いをすることができるんですか」
麻原:「(意味不明)」
杉本:「私たちがたとえ刑に服しても、それではポイにならないでしょう。一体私たちはどうすればいいんですか。何をどうすれば本当の意味で償うことが出来るんですか。私はどうすればいいかわからないけれども、しかし、あなたの、最終解脱者の知恵というものをもってすれば、お答えがいただけるんじゃないですか。それとも、ただあくびして、ぼーっとしてるだけですか
麻原:「(小声の英語説明)」
杉本:「自分の都合の悪い質問になるとお答えが出来ないんですか。それとも、一体どうすればいいですか、私たちは」
(中略)
杉本:「私たちは、自分をごまかして、現実から逃避することが出来るんですよ。あなたもそうでしょう。今現在、現実から逃避しているだけでしょう」
麻原:「(英語を続ける)」
杉本:「私たちの刑が確定した段階で、あるいはその後死を迎えるまでの間に、例えば、私たちはあなたにだまされたと、あなたを信じた自分がバカだったと、あるいは私たちが刑に服することで償えたんだと、そのように考えて自分をごまかすことが可能なんですよ。そうやって自分を納得させることができるわけでしょう。でも被害者の方々はそうはいかないでしょう。自分をごまかすことも、現実から逃避することも出来ないでしょう。その方々に対して、一体どうお詫びすればいいわけですか。一体どうやって私たちは償えばいいのですか
麻原:「これは難しくてね。これ、私、彼らに記憶修習の・・・」
杉本:「難しいんですか。その答えは」
麻原:「テンションズ、だからやめてしまったんだよ」
(中略)
杉本:「まさか、この一連のオウム事件で、あなた、あるいは教団との縁が出来て、未来世において、被害者の方々が救われるなんてバカな考えをあなたは持っているんじゃないでしょうね。」
麻原:「それはシャットアウトしてきているから、そして、思案した上で、何も答えられないんだ・・・」
杉本:「結局、あなたは何も答えられないんですか。最終解脱者としての能力というものはどうしたんですか。」
麻原:「難しいんですよ・・・」

(中略)
豊田:「松本被告、僕は今日、何も言わないつもりで来たんですけれども、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。

あなたはグルなんですか。

グルなんですか。

グルじゃないんならはっきりとさせたらどうですか。
麻原:「・・・・(無言)」
豊田:「質問に答えないで、かわしているだけで。何よりも被害者のことをどう思っているんですか。」
麻原:「・・・・・」
豊田:「あなたの態度を見ていると、自分の公判が長引くのに安住して、現実から逃避しているだけにしか見えないんです。どうなんだ。
どうせ、返事はないでしょう。最後に一点だけ言います。今、教団に残っている人、この現実をしっかり見た方がいいと思います。証人は前回、地下鉄サリン事件は井上と村井に押し切られたと言いました。つまり、彼には弟子を止める力がないわけです。そんなグルについていていいんでしょうか。しっかりと現実を見て欲しいと思います。これ以上過ちを繰り返さないでください。以上です。」

 

この裁判中の杉本・豊田と麻原の対話は、色々考えさせられます。本当はもっと長いので、出来れば『オウム法廷』10を読んでいただきたいです。

なおこの刊では、最後ヤスさんに対する死刑判決と、豊田・広瀬に対する死刑判決、

杉本に対する無期懲役の言い渡しまで詳細に書かれています。

 

最後に、ここに出て来ていない、広瀬健一さんは、1999年4月中旬ごろから時折意味不明なことをいうようになり、弁護人に「やっていることがまとまらなくなった。常に連想ゲームをさせられているようで苦しい」と訴え、一時期は拘置所内の自殺防止の房に移され、さらに声がまったく発せなくなってしまったとのことでした。

広瀬弁護団によると、広瀬は麻原と訣別しきっていたと思っていたが、医師の接見でいまだに麻原を憎めていないと指摘され、深く内省の途中でそのような状態に陥ったのではないか、とのことです。

広瀬健一さんは、一審の死刑判決言い渡しの時は、出廷しました。

 

オウム真理教の振り返りのドラマを作る際、杉本繁郎さんの手記から麻原との出会いや本物と感じてのめり込んでいったところや、関与した事件、そしてこの裁判でのこのやりとりと、オウムと訣別できたと感じられた現在の姿までを辿るようなストーリーであれば、数時間のドラマのなかで、20年分を感じさせられるなにかが見る側に得られるのではないか、と思います。杉本繁郎さんの手記を活用したドラマ制作をお願いしたいと思います。

 

次は、ヤスさんが見た中川さんの一面について書きたいと思います。

 

5回目の7月26日を迎えて

本日は7月26日。
ここ数回のブログに登場してもらっている
林(小池)泰男さんのほか、6名の方々が、自らの命で罪を償われた日でした。

多分テレビでも特集も組まれないように思います。

 

 

林泰男さんは、外部交通者でもあった、田口ランディさんに
死刑になることについて、このような手紙を書いていたようです。

逆さに吊るされた男 (河出文庫 た 48-1)

 

「現在の私の人生は、死刑囚として独房で生活し、日々贖罪のために刑の執行を待っている、というものです。もちろん刑の執行のみが贖罪なのではなくて、すべての日々の生活が贖罪となるものです。


だけど、私のこの生活がほんとうに贖罪となるものなのか私にはわかりません。


私は罪について、反省について、自分の思いをうまく説明することができません

ほんとうは、格好をつけて、いつでも死を受けいれる覚悟がありますと言いたいところですが、覚悟なんかありません。


ただ、死刑になるときは、執行のボタンは自分で押したいです。
あるいは足元の扉は開けておいてもらって、自分からそこに飛び込みたいです。
ロープも自分で首にかけさせてもらいたいです。
刑務官の人に、人を殺すという負担をかけたくないんです。
もう誰にもなんの負担もかけたくない。誰にも苦しみを与えたくない
そう思います。」

おそらく、1998年ぐらいのやりとりかと思いますが、このようなことも書かれていました。

「先日、雑誌に掲載された林郁夫の手記を読みました。殺人者は、人から反省しろ、言われることが多いのですが、反省とは、どういうことなのかと考え出すと、わからなくなります。ただ、私は林郁夫が見せたような、ああいう反省の仕方はしないという意味で、私にとっては一つの指針となりました」

 

林(小池)泰男さんは、東京拘置所から仙台拘置所に移送されて、
このような気持ちを持ちながら、刑に服したのだと思います。

もっとヤスさんの言葉を聞きたかったです。

 

7月26日に処刑された方々の多くは、地下鉄サリン事件の実行犯だった方です。

(ヤスさん、豊田亨さん、広瀬健一さん、横山真人さんなど。

宮前(佐伯)一明さんは、坂本弁護士殺害事件で、端本悟さんも坂本弁護士事件の他、

松本サリン事件に関与)

彼らの体験を見聞きするに、もし自分がオウム真理教にいたとして、麻原や村井秀夫に知られて、実行犯に選ばれてしまったならば、現世の刑法によって裁かれて死刑になる可能性があったかもしれないと思わせられるほど、教団に入るまでの思い、教団での生活、麻原との関係、事件に関与・・・。読めば読むほど考えさせられます。

 

ヤスさんも本当はもっと外部に自分の言葉を発信したかったのかもしれない・・・。

私もヤスさんたちの言葉をもっと聞きたかったです。

それがかなわないため、少しでもカルト宗教に心を捕らわれてしまった人の体験記を

見つけては読んでいる最中です。

理解が中々追いつかないです。

 

最近、二冊の本を見つけました。

一冊はこちら

「カルト」はすぐ隣に  オウムに引き寄せられた若者たち (岩波ジュニア新書)

もう一冊は

カルト宗教事件の深層: 「スピリチュアル・アビュース」の論理

 

探した基準は、杉本繁郎さん(現在、無期懲役として山形刑務所に服役)の体験記が

掲載されているからです。

 

オウム真理教の死刑囚がいなくなってしまい、

オウム真理教での体験を語ってくれる貴重な方の一人です。

 

杉本繁郎さんは、地下鉄サリン事件のときに、ヤスさんを送迎しました。

その他教団内のリンチ事件で殺人に関与して、無期懲役となりました。

広瀬健一さんや横山真人さんは、教団でのリンチ事件などの殺人事件に関与していないのに、地下鉄サリン事件での殺人(広瀬健一さんの路線では1人、横山真人さんは犠牲者を出していない)と、自動小銃密造事件で死刑となりました。

杉本繫郎さんは直接殺人事件に関与しています。

現世の法律、裁判の力点が教団武装化に重きを置かれた結果で広瀬健一さん・横山真人さんらは死刑になってしまった・・・。

 

このブログでは中川智正さんについて書いていますが、

次に書こうとしている内容の前に、杉本繁郎さんの体験を紹介しておきたいと思います。それは、杉本繫郎さんは藤田庄市さんに

「(オウムで無自覚のうちに意識変容、呪縛があったことを認識できたのは)麻原や教団から離れ、かつその情報等を完全に遮断した状態で私なりに考え続けたものの、

21年の歳月を要した末の結果」と書いています。2016年のことだったとのことです。

 

前回のエントリーで、林泰男さんは新宿駅青酸ガス事件の頃、逃亡生活中に逮捕されたら自分らは死刑になると中川さんに言ったが、中川さんは、自分たちが死刑になるとは全く考えていなかった、にもかかわらず、逮捕されて取調の時には「私は死刑ですね」

などと警察官に話したりしているのがあまりにも無自覚なのに気づいたのです。

中川さん自身は、実際どこまで

自分の中の「二つの人格」を意識できていたのでしょうか。

中川さんも東京拘置所生活で、麻原の姿なしに守られた生活の中で、ある程度は

気づきがあったに違いないですが、中々そのことを自分で言語化するレベルまでは至れなかったのではないかとも思いました。

せっかく郵便のやり取りが出来る相手となった江里昭彦氏も残念ながら、オウム真理教に関する理解は、私たちが事件時にテレビやマスコミを見たそれとほぼ同じぐらいなのではないかと思ったからです。

「ジャム・セッション」と銘打ちながら、中川さんの話を引き出すというのまでは力及ばないまま、中川さんの死刑が執行されたのが残念です。

 

ヤスさんや、杉本さんは、教団に疑問を持っていた人だったのですが、

その人たちでも21年もオウムの呪縛から逃れるのに時間を要していたのなら、

中川さんはもっと深いに違いないと思ったので、またここでも「寄り道」をすることとします。

 

江川紹子氏の著書に掲載されている杉本繫郎さんの手記は、

「第3章 ある元信者の手記」です。

 

杉本繫郎さんは、大卒後、身体の調子が悪かったり、仕事がうまくいかなかったりしたある時に、麻原彰晃の本に出会ったのです。

ヨーガについて、杉本さんがしていた体験を言語化した記載を見て、どうしても会いに行きたくなったとのことです。

麻原の元で修行をはじめて約10日のうちに、自分の意識が体から抜けて行く体験や、三人のチベット僧からの祝福を受けてエネルギーが上昇していくような感覚などをし、

麻原を師匠と心底から思い込むようになったということです。1986年の頃とのことです。

杉本さんはこのように書いています。

「信者となった他の人たちを見ていても、オウムにのめり込む上で、「神秘体験」は大きな要素でした。

ただ、ほんとうは、ヨーガの行法によって何らかの身体的変化が起きるのは、いわば当然なのです。問題はその変化が、本当に「神秘体験」などと呼べるものだったのか、ということです。

セミナーに参加している人の大部分は、セミナー中に何らかの「神秘体験」をしたい、あるいは自分の身体に起こった変化を「神秘体験」と言ってもらいたい、という願望を胸に抱えています。

このひょうな人たちは、あまり意味のない体験をしたとしても、「それはアストラルの体験ですね」とか「クンダリニーの上昇ですね」など、自分が求めている答えが得られるまで質問し続けるのです。

こうして、意味のない体験が、いつの間にか意味のある「神秘体験」として認識され、自分は貴重な「神秘体験」をしたと思い込む自己満足の世界に浸っていくこととなるのでした。

もう一つ、多くの人が麻原を崇拝し、教団に出家したのは、次のような我々の疑問に、麻原が一つの答えを提供したからです。

 我々は、なぜ生まれ、なぜ死んでいくのでしょう。そして、我々はどこからやってきて、死後はどこへ行くのでしょう。

(中略)

輪廻転生などは、麻原独自のものではなく、日本でも仏教の教えとしてよく知られているが、麻原の言葉が作り出す世界観にリアリティを感じ、あたかもそれが現実のものであると思い込んでしまったのです」

 

そのようなことを書いた杉本繫郎さんは、教団を抜け出したことがありました。

1993年2月でした。

麻原の運転手をしていた杉本繫郎さんは、麻原の行動の秘密を知って、言っていることとやっていることが違うと疑問を抱き、麻原から理不尽に怒られることが続いて不信感が溜まって広島の実家に帰ってしまったのでした。

 

そうしたら、何人かの古参信者が教団に戻るように説得にやってきたとのことです。

その古参信者の一人が、5年前の今日死刑となった林泰男さんでした。

「尊師に挨拶もしないで下向するのはよくない。とにかく尊師に挨拶をしてからにしましょう」

それで杉本さんが戻ったのは、やはり麻原は特別な存在であり、裏切ったら無間地獄という恐怖もあったので、麻原に直接教団を離れたいというつもりで広島から教団へと戻ったのでした。麻原の承諾が欲しかったのでした。

 

教団に戻ってきた杉本さんにたいし、麻原は優しい対応をしたのでした。

「お前を帰すことは、私にとっても大きな賭になる。お前は教団の秘密をあまりにしりすぎているから」といい

最後に、満面の笑みをうかべて

「お前には、一緒に死んでほしかったのだが」

どなられるよりも、その笑顔に底知れぬ怖さを感じてしまったのでした。

 

そのあとに、杉本さんは二つの信徒リンチ殺害事件に関与することとなります。

 

そして地下鉄サリン事件の前日の早朝に、林泰男に車の運転を頼まれたのでした。なんのためかは、指示の理由や目的を聞かないという不文律があったので聞かず、合計7人が東京に向かったのでした。

7人中、4人が「科学技術省次官」でした。林泰男広瀬健一豊田亨横山真人の四人で、杉本さんは林泰男以外の3人の次官に対しては学者と思って、何か大変なことをさせられるという心配もせずに東京までの車を出したということです。

杉並のアジトで、林泰男が井上嘉浩と待ち合わせをしている時の会話から、良からぬことをやろうとしているのは感じたとのこと。

車の中で、広瀬健一さんと二人きりになった時間があったのですが、広瀬健一さんは杉本さんからみて、「告げ口」をしない人だったので、「今回は何をやるの?」と聞いたら、広瀬健一さんは怪訝な顔をして「地下鉄のような密閉空間で撒いたらどうなるか、の実験」と答え、杉本さんが「何を撒くの?」と聞いたら「サリン」。

何のためにと聞くと、広瀬健一さんは「強制捜査を阻止するため」と答えたということでした。

杉本さんは広瀬さんに

「そんなことをしたら招き猫になっちゃうんじゃないの?」

 

オウム裁判においては、途中から杉本さんは、地下鉄サリン事件の実行犯であった広瀬健一豊田亨さんと3人で受けることとなりました。

それは信徒リンチ事件について自首が認められたこともあったと思います。

杉本さんは、

「実行役になるのも、運転役になるのも、麻原が決めたことです。私も実行役に選ばれていたら、広瀬健一豊田亨と同じように行動していたでしょう。麻原が誰を何の役に指名したかで、生と死が分かれるというのは本当にいたたまれない気持ち」と記しています。

 

オウム裁判のうち、広瀬健一豊田亨・杉本繁郎の三名一緒の公判は、異質であったと思います。

私が見た21の死刑判決 (文春新書)

 

3名とも、法廷内で私語をせず、顔を合わせて自分のしたこと、思いを証言していく裁判で、2000年7月17日の一審判決で広瀬健一豊田亨は死刑、杉本繫郎は無期懲役と言い渡されました。

その瞬間、動揺したのは、死刑になる広瀬健一豊田亨ではなく、杉本繫郎さんでした。

罪悪感を認識したかのように、顔を真っ赤に膨れ上がらせて、豊田・広瀬のほうをみる杉本にたいし、死刑判決を受けた豊田・広瀬は正面を見据えたままでした。

 

2009年5月に、藤田庄市さんは、刑務所に移送される杉本繫郎さんに面会をすると、

「言葉が見つからない、自分が今、生かされていること自体申し訳ない。刑に服しても償えないことはわかっている。どうしていいかわからない・・・・」と

突然わっと涙を流して、声を震わせたとのことです。

 

7月26日処刑の方々についても触れてみたくて、今回は少なくなってしまったオウム事件語り部である杉本繫郎さんにご登場願いました。

 

麻原の命令によって偶然実行犯、運転手と決められたことが、現世の法でまた死刑と無期懲役に切り分けられた事実を思いながら、この日を過ごしたいと思います。

横山さん、端本悟さん、宮前(佐伯)一明さんについてあまり触れられなくて残念ですが、ご冥福を祈っております。存在を忘れてはいません。

 

 

 

 

 

「尊師は信じる、信じないの対象ではなかった」

中川智正さんが死刑執行されてから、ちょうど5年が経ちました。

私は中川さんが死刑執行された報道に接し、
そういえば、私は中川さんという人を知らないと思い、
中川さんに関する書籍や事件当時の新聞記事あさりを始めてしまったことで


5年後の今でも続く自分の勉強テーマの一つになってしまいました。

調べれば調べるほど、どのように取り上げたらよいのか分らないぐらい
毎回ブログ書く時に苦しんでいます。

おそらく中川さんについて、世間の少しオウム真理教に興味を持つ人は

・麻原に騙された
・麻原にマインド・コントロールを受けた
・宗教冷やかしをしていたらオウムに取り込まれた
・医学の限界を感じた

などなど評価するでしょう。

中川さんは、麻原氏の指示で事件を起した自分が処刑されるのは
仕方がないが、
オウム真理教に関して、当時の報道だけで切り取って
評価してもらいたくない、
誰か体系的にオウム真理教と起した事件について
日本でずっと読まれる書籍を書いてもらいたい、
そのためであれば
自分は協力したいと思っていたのかもしれません。

森達也氏は数少ない一人だったと思います。


前回のエントリーから、新宿駅青酸ガス事件・都庁小包爆破事件で共犯者であった
林(小池)泰男(ヤスさん)に登場してもらっています。
今回もヤスさんの裁判において、中川さんが証言した言葉を紹介したいと思います。


林泰男第8回公判(1998年3月23日)のときの証言です。

検察官から「今も教祖に帰依し、信を置いているのか」

と聞かれた中川さんは

その言葉にはいろいろ意味があると思うが、
私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたわけではない。
もともと尊師は信じる、信じないの対象ではなかった

と証言しました。

これは、ヤスさんが、麻原に対する恐怖心と自分のそれとは違うということを
示すものでした。
偶然とはいえ、裁判では当時あまり証言していなかった中川さんにしては
めずらしく自分の言葉で伝えようとしていたと思います。

 

 

(法廷画は、「朝日新聞」1998年3月28日朝刊より)

 

ちなみにヤスさんは、
麻原第66回公判(1998年2月13日)で

「なぜ地下鉄サリン事件で実行役に選ばれた時に断れなかったのか」
に対して

「断れば制裁があると思った。
恋人との仲がばれて殺された友人と同じことが、自分にも起こると考えた」
という恐怖の気持ちを証言したのです。

サリン散布時に教団の教義を考えなかったのか?という質問にも
「その場では考えなかった。直感的、潜在的には人を傷つけ、人の命を奪うのだから、
ヴァジラヤーナによる救済だとか、ポアだとか関連して、仲間は考えていたと思う」
と、自身と他の共犯者との間には違いがあることを示唆していました。

さらに
「自白剤を使ったり、周囲の間違った報告をうのみにしているのをみて、
相手の心の状況を読む、といっていた麻原の能力には限界があると思った。
オウムは間違っているとわかったが、
しかし教団を抜けよう、逃げようとしても不可能だし、
仮に逃げおおせても見つかれば自分の命はないだろう、と思っていた」

証言しました。

おそらくヤスさんの証言を読んだ人は、
オウム事件の報道とも関連させて、
「オウムが間違っていることを分っていても、麻原に自分の心がバレてしまったら
殺されるのが怖いまま、たまたま地下鉄サリン事件で実行犯に任命されてしまった
ヤスさん。もし自分がヤスさんの立場であったなら、やはり同じことするだろう」
と納得する人も一定数いると思います。

私はヤスさんの行動で、よくオウムが理解できた気がしました。

教団が誤った方向に進んでおり、そのガンでもある村井秀夫の部下で
科学技術省次官に異動になったのは、ヤスさんはしんどかったろうな・・・と。

ヤスさんの立場、思いと対比させるための証言として
中川さんは出廷することとなったのだと思います。

 

ヤスさんの弁護人・中島尚志氏の著書によると

 

オウムはなぜ消滅しないのか

中川さんは
捨て鉢的な態度と強力なエネルギー」を感じる人物であったと記されており、
中川さんには、霊的な事柄に敏感に反応する能力があると感じたとのことでした。
中川さんと教祖との間には、霊的な共鳴現象が起こっていたと

ヤスさんは、当時の教団や教祖の姿勢についていけなくて
教団にいる以上、その指示を破れば他の人みたいに殺されるのが
「恐怖」と言いました。

中川さんのいう恐怖とは、ヤスさんのそれとは全く異なるものです

 

「私は尊師に殺されるというような、他の人がいう恐怖を感じたことはない。
それとは違って、例えば、私を何者だと思うかと尊師に聞かれたとき、
僕は、(尊師は)化け物だと思います、と答えた。そういう恐怖だった。
尊師はある種の自滅行為をしていたと思う。
そういうことをやりかねないことは、尊師も言っていたし、
僕は入信前からわかっていた」

そのような自滅的行為に、できれば「自分は関わりたくなかった」
しかし、入信前にいろいろと神秘体験をして、

普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれ、という感じで入信した。仕方なかった。
僕としてはその後いろいろなことがあっても、
しょうがない、という感じで冷めていた」

裁判長から

「すると犯罪になることでも救済のためには許されるという教義があるので、
犯罪行為に加わった、と他の被告たちはいうが、あなたはそう考えていなかったのか」

 

「私は教義で許されるから犯行に加わったという認識はない。
林(ヤス)さんは、地下鉄サリン後、自分たちは死刑になる、と言っていたが、
林さんは個人主義でマイペースな人だからそう考えるのだと思う

私は全然、死刑になるなんて考えていなかった」

 

想像以上のことを言っていますが、
あまり中川さんのこの証言を取り上げた人はいなかったと思います。

中川さん自身は、その後、このヤスさんの公判で話したことをベースに
教団や麻原氏に関する質問をされた場合に回答していたように思うのです。

 

それにしても、ヤスさんは、中川さんからみると「個人主義でマイペースな人」なのか・・・。

そして、週刊誌では「取調中に良く泣いて、オウムを狂団といい、
私は死刑ですね」などと書いてあった、そのような言動もしていながら、
ヤスさんのように死刑になるとは全然考えないで逮捕された中川さんの
この両面性をどのように捉えたらよいのでしょうか。

全く判りません・・・。

 

中川さんは、このヤスさんの裁判に出廷して証言した言葉を
形を変えて語り続けていたように思います。
それだけ、世間で報道されている「中川は麻原にマインド・コントロールされた」
というのが違うことを理解してもらいたかったのだと思います。

 

江里昭彦氏との同人誌「ジャム・セッション」には

そのようなエッセイが掲載されています。

 

第10号(2016年12月号)には

麻原氏は膨大な説法や著書を残していますが、その中には

「私を人間と見てはいけない」

「自分は弟子のためにいる」

「自分が救済のためにボロボロになるのは本望である」

「私には苦が存在しない」

などという趣旨の話があります。

今から思うと、当時の麻原氏は、その頃私が考えていたよりもずっと無理をしていたのです。

 

さらに第7号(2015年6月)の俳句には

 

逮捕前の教祖について

 

亀鳴くや齢のしれぬ沼深く

 

と詠んだあとのエッセイで

 

「私は、法廷で『殺されるとかそういう意味ではなく、麻原氏のことが恐かった」という証言をしました(念のためにいうと、麻原氏が恐かったから麻原氏に従ったという意味ではなく、麻原氏に対して感じていたことの一つをこう述べただけです)。

 

教団内での麻原氏は、教祖としての威厳を保ち、信者の掌握から教団の運営に至るまで卓越した能力を発揮していました。

私は麻原氏の日常生活を知っていましたが、信者の前だけ教祖を演じていたのではなく、日常的にも教祖でした。

それだけではなく、あの頃の麻原氏には、

この生命体は何年生きているのだろうと思わせる底知れぬ部分がありました。

彼の生まれ年は私より七年上です。

しかし麻原氏に接していると、時折、この人物は何百年、何千年と生きているのではないか、と感じてしまうのです。私はそんな麻原氏をすごく恐く思いました。

(中略)

山梨の田舎のソファーに座っている目の不自由なこの人物が千人以上の人間をいいように動かしている。

その中には殺人に関わる者がある。

月に何千万とお布施を集める者もいる。

何十人と入信させる者もいる。

自分も必死になってこの人に従っている

ふと、この人は何者なのか、何で皆この人に従っているのか、この人の中の何が人を

惹きつけているのかと考えた時、恐ろしいものがありました。」

 

そのように教祖をみていた中川さんに、教祖が世間話でもするような口調で

「お前は私を何者だと思うか?」と聞くと

中川さんは

「言葉は悪いと思いますけれど、化け物だと思います」と答えたとのこと。

麻原氏はその言葉を聞いて黙って微笑していたとのことでした。

 

教祖以下6人の死刑執行日だからこそ、

今年は、中川さんの、ヤスさんの公判にでて話したことが核となった、このエッセイを

思い巡らすこととしたいと思います。

 

むしろ、マインド・コントロールにかけられて事件を起こしたとでもした方が

世間的にも「わかりやすい」のかもしれません。

でも中川さんはそれを何とか違うと言いたかった。機会を求めては違うと書き続けたのですが、同人誌をともに作っていた人にも理解されないまま執行されてしまったのは

残念だったと思います。

 

中川さん本人は、結果として25人もの殺害などをしているため、死刑は免れないことは承知していたと思いますが。

麻原氏の元に居る限りは、死刑になる発想さえ、当時はなかった。

取調官の前では、現世の人として接しながら、死刑にはならないと考えていた。

 

この理解しがたい中川さんを取り巻いていた何かを見ようとして、力不足を感じます。

ヤスさんの言うことは何とか理解できますが。

 

理解しようとして、あえて理解できないものをそのまま出すということを

今年はしてみました。

 

 

【殺人マシーン】林(小池)泰男の人物像【ヤスさん】

こちらのブログ、本当に久しぶりの更新となってしまいました。

今回は林(小池)泰男さんの人物像について説明したいと思います。

このブログは中川智正さんに関する内容ですが、林(小池)泰男さんの裁判での言動を知ることによって、中川さんに関して新たな見方が出来るようになると思っているからです。

 

ところで、私自身は、中川智正さんについて調べ始めたころ、林(小池)泰男さんについてどうイメージしていたか、というと

 

この雑誌記事通りです。

週刊宝石』1995年7月13日号の記事より。

当時は教祖も共犯者もほぼ逮捕されている状況の中、地下鉄サリン事件の実行犯である上、さらにサリンを持って逃亡して何かしようとしている『殺人マシーン』というイメージでした。

この雑誌記事にあるように、早川紀代秀さんの側近であると書いてあるので、きっと教団の武闘派のひとなのだと思っていました。

しかし実際は、外部交通者にもなった田口ランディさんの本からうかがえるように

 

一度もお目にかかったことのない私でも「ヤスさん」とお呼びしてしまうような

実直で、穏やかで、不器用な方だという見方に変わりました。

 

中川智正さんと林(小池)泰男さんの接点は、

新宿駅青酸ガス事件です。

なぜ地下鉄サリン事件ではないのでしょうか。

 

書類上では確かに共犯者にされると思います。

 

役割が異なったからです。

 

中川智正さんは、サリン製造した人。

林(小池)泰男さんは、サリン日比谷線で撒いた人。

製造側と、実行側は井上嘉浩さんを除いては接点はありません。

 

村井秀夫、井上嘉浩、遠藤誠一は、3月18日深夜のリムジン謀議の場にいました。

(なお、この謀議の場にいたのが、柏原弁護士と芦川順一もでした。柏原弁護士は、懲役刑が終わったあと、社会で生活していて、芦川順一は起訴もされなかったのでした。

地下鉄サリン事件は、サリン製造者及び

実行犯と、実行犯を送迎した運転手が死刑と無期懲役等で罪を償ったのです。

製造者は上九一色村におり、

実行犯と送迎者は、東京都内にいたので、

共犯者とはいえ、接点はなかったのです。

 

中川智正さんと林(小池)泰男さんとの直接のかかわりは、そういうわけで、地下鉄サリン事件後、アジトを転々としながら麻原の指示を受けた井上嘉浩を中心としたテロ行動の時だったのです。

 

このアジトを転々としている時期ですが

川越のウィークリーマンションにいた時、中川智正さんが一緒にいた豊田亨さんについ

地下鉄サリン事件の話を断片的にしたところ、さらに豊田さんが気落ちしてしまった様子をみて、何となく「豊田が実行犯の一人だ」と製造者側として思ったという話が、

『オウム法廷』4にあります。

松本智津夫被告第24回裁判、1997年1月31日)

 

基本は事件の話をしないままアジトを転々とする生活内で、中川さんはこのような小さな会話で、自分の製造したサリンを撒いた役の一人が豊田さんだったとわかったらしいです。

 

林(小池)泰男さんの話に戻ります。

彼がなぜ「殺人マシーン」とマスコミから言われたのかというと、彼が担当にした

日比谷線の被害が甚大であり、死者が8人も出たことなどによります。

地下鉄サリン事件サリンは、麻原の指示により、松本サリン事件の時とは異なる製造方法でした。

boku2world.hatenablog.com

 

読売新聞の報道により、オウム真理教サリンを製造していることが報道された1995年正月に、製造したサリンを破壊してしまっていたから。

とはいえ、大量なので作業者はサリン中毒になりながら寝ないで作業したけれど、破壊しきれなかったのでした。破壊しきれなかった材料(ジフロ)を今川アジトに隠していたのを、麻原からサリン製造を命令されて持ち出してきたのをもとに製造しました。

そのサリンの袋が11個できました。

村井秀夫が、実行役5名(林(小池)泰男、豊田亨横山真人広瀬健一、林郁夫)にサリン袋を分ける時、どうしても誰かが一袋多く引き受けなければならなくなりました。

村井から「どうだ。(3袋)持ってくれるか」と声を掛けられたときに、麻原の命令だし、引き受けざるを得ないと、ヤスさんは思ったということです。

ヤスさんは、皆に愛される人でした。

その一つは、「他人の嫌がる仕事をすすんで引き受ける」です。

「人の嫌がる仕事を進んで引き受ける」タイプの人は、どんな組織でも重宝されるはずです。それがヤスさんの場合は、オウム真理教地下鉄サリン事件実行犯に麻原、村井から選ばれてしまったことでした。

しかも、ヤスさんの場合は、1994年ぐらいから麻原の言動に理解しがたい物を感じていたが、それに逆らったら殺されてしまうのが怖くて逃げられないと思い、逃亡しなかったことや、さらに悪いことに、行きたくなかった科学技術省に異動となり、村井秀夫が上司となったことで身動きが取れなくなったのです。

ヤスさんこそ、嫌な仕事ではあるが、所属している組織の命令だからと実行したことで

自分の命をもって最期償う事となってしまった人物であります。

ヤスさんを見ていると、現在何らかの組織に嫌々所属している私たちだって、時と場合によってヤスさんに立場になり得るのではないかと思えてしまいます。

 

ヤスさんは、サリン袋を突く時に、「スカでありますように」と念じつつ何度も傘の先でついたということです。

 

地下鉄サリン事件後、アジトを転々とする生活中、ヤスさんは、深夜映画にのめり込み、オウム事件の報道をなるべく見ないようにしていたとのことです。

新宿駅青酸ガス事件後、井上嘉浩、豊田亨中川智正さんが逮捕されていくなかで、

恋人と東京、名古屋、京都、沖縄と逃亡生活を続け、1996年12月3日に石垣島で逮捕されました。

他のオウム事件の被告に比べて、初公判が開かれたのは遅かったけれど、死刑が確定したのは2番目でした。

それは、全面的に罪を認めて裁判に臨んだことが大きかったと思います。

死刑判決文には

被告人には善良な人柄を読み取ることができる。…被告人の資質ないし人間性、それ自体取り立てて非難することはできない。…およそ仰ぐべき師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまだ、不幸かつ不運である

とあります。

⤵はヤスさんの国選弁護人を務めた中島尚志氏の著書より

 

 

林(小池)泰男さんは、死刑時は「小池泰男」でした。

これは教団信徒の女性と獄中結婚をして、改姓したからです。

私個人は、林(小池)泰男さんが元オウムの女性と獄中結婚をしたと聞いても

「ああそうか」ぐらいにしか思いませんでした。

 

しかしながら、中川智正さんが死刑執行後、実は獄中で教団元信徒女性と養子縁組をしていたというこのツイートを見た時、正直、ショックを受けました。

 

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当時(今は自分のミスで消してしまったブログですが)、中川智正さんについて書いていたので、自分が何か悪いことを発信していたのではないか、と勝手に悩んでしまいました。

脱会したのに、元オウム信徒と養子縁組していた?

死刑執行後、本人は実家に戻らなかったのか?

 

とにかく数か月ショックを受けていました。

 

当時、中川智正さんが実家に戻らなかったことで、「裏切られた」と感じ、離れたひともいました。

 

私は、オウム真理教のような宗教から完全に離れるのは難しいのではないか、特に死刑囚だからこそ、と思い、

再度調べ直したりするきっかけとなりました。

その際に、資料を読み直すと、特に接点が多いとは言えない、林(小池)泰男さんの言動を手掛かりに見ていくなら、死刑囚として死んでいく人が、強がって教団と縁切りして孤独のまま死刑囚生活を送るよりは、死刑を受けるまでの日を精神的にサポートしてほしいと思って、元信徒の方を外部交通者として持つのは当たり前ではないかと思うようになりました。

 

中川智正さんは一審だけで8年近くかかりました。

本人は、2000年以降積極的に発言するようになったのですが、なぜかその内容が

世間では知られていません。

2014年死刑囚としてオウム信徒の公判に出廷し冒頭に謝罪。2017-2018年にかけてVXに関する論文を獄中で反省の意味を込めて書いたことで、なんとなく「オウム真理教事件を反省しているひと」とされているけれど、

中川智正さん自身は、それ以前に自分が確定死刑囚になる前に「オウム真理教の事件が若い人に体系的に理解できるようになっていない」と嘆いてもいました。

その一端が、江里明彦氏との雑誌『ジャム・セッション』のエッセイをよく読むと分かる気がします。

それにしても、林(小池)泰男さんならスルーされることが、なぜ中川智正さんだと問題になるのでしょうか。これは私たちの「思い込み」が原因ではないかと思う今日この頃です。

 

今後数回、ヤスさんにご登場願って、中川智正さんの裁判中の言動を見ていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「麻原尊師をどう思う?」

この言葉は、1996(平成8)年11月13日の中川智正公判において、
被告である中川智正さんが、証人出廷してきた共犯者・魚崎仁に
直接尋ねたものです。(「毎日新聞」1996年12月10日大阪朝刊)

魚崎仁は、灘高校から東大医学部を経て医師となり、その後オウム真理教
出家した人物です。刑期を終えて出所しています。
なので、名前を調べればわかりますが、仮名にしています。

 

中川智正とは、滝本弁護士サリン襲撃未遂事件、新宿駅青酸ガス事件と都庁小包爆破事件で共犯の関係です。

この日の公判では、新宿駅青酸ガス事件と都庁小包爆破事件の頃の中川について尋問され、魚崎は

 

「八王子アジトにいた頃、中川は何かしていないと精神が崩壊する様子で

ひたすら爆薬づくりをしていた」と証言しました。

 

この日の裁判が終わる前に、突然被告の中川智正さんが

タイトルの言葉をそのまま魚崎に問いかけたのです。

(なお、教祖もこの1996-1997ぐらいまで不規則発言がすごくて、麻原劇場と称する

人たちがいました。

私はオウム真理教の裁判がどのようなものであったか知るために読んだ

青沼陽一郎氏「オウム裁判傍笑記」でたくさん笑いました・・・。

師匠の不規則発言もすごいが、弟子の中川さんの不規則発言ぶりも中々のようで・・・。証人出廷した魚崎もちょっと驚いたと思います。

 

 

 

魚崎はこのいきなりの被告人中川智正からの質問に何と答えたのでしょう。

 

麻原氏を非常に敬愛し、ヨガの修行者としてレベルが高かったと今でも
思っている。しかし、彼が取った行動は人間社会から見たら許されない

 

と答えました。

中川智正さんは、この魚崎の解答ににっこりほほ笑んで、魚崎に一礼をしました。

新聞記事には「(中川の)笑顔は何を意味していたのだろうか」
と書いてありそれで終わっています。

なぜこの時の中川さんがほほ笑んだのか。
おそらく、中川さんの言いたいことを魚崎仁が的確に言語化してくれたからだと思います。


中川さんが確定死刑囚になった後に、


中川智正死刑囚の手記 当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」、『現代化学』548号(2016年11月号)で質問に答える形でこのように記しています。

 

 

 

 

<質問5>どうして高学歴の科学者がオウム真理教のような宗教に入り、

     事件を起したのか

 

私個人でなく、教団の科学者一般の話を書きます。
第一に、そもそも科学と宗教とはまったく別のものです。
科学は検証可能な命題に対してある種の判断を与えるものです。
たとえば宇宙の起源とされるビックバンがどのように(How?)起こったかは
科学の対象ですが、なぜ(Why?)起こったかは科学の対象ではありません。
そこに神がいるとしても、いないとしても、科学とは矛盾しないと思います。

 

第二に、重大事件に関わった者が入信したのは、ごく一部の例外を除き1988年以前で、
当時の教団は殺人やサリン製造などとは無縁の宗教団体でした。

教祖の麻原氏は、そのような宗教団体を犯罪組織にしたという点で、
宗教家以前に犯罪者ですが、

ヨガや瞑想の指導者としての能力はきわめて高かったのです。

また麻原氏は、教団の外部に対してだけでなく、内部の大部分の者に対しても
「実際に殺人を行う(行っている)」とは言いませんでした。
私を含めて、教団が殺人を犯すなどと思って入信したものは皆無でした。
少し考えていただければわかりますが、このような事情がなければ、
いくら1990年代前半でも、

日本とロシアで数万人の信者が教団に入信するはずがありません。
ヨガや瞑想の部分で麻原氏に対して絶対的な信頼をおいてしまった者が、
私を含め、事件に関与したのです。

逆にいうと、

麻原氏は自分を深く信頼している者を選んで、

殺人や化学兵器の製造などを命じたのです。

率直にいって、麻原氏を単なる詐欺師であると書くことは簡単で世間の受けも良いのですが、事実は事実として述べないと質問にお答えする意味がないので、あえてこのような内容を書きました

いかなる理由があろうとテロは許されない、とはしばしば言われます。これはその通りです。しかし、ある人物が危険な宗教やテロ組織に入ってしまう背景と後にテロを実行する背景は、多くの場合、違っているように思われ、両者は区別すべきではないでしょうか
この辺りから考えていただくことが、今まであまりテロ対策につながるのではないかと思います。


この記事が書かれたあと、やはりというのか、新聞では
中川死刑囚が「麻原は宗教家以前に犯罪者」と非難のような言葉で
紹介記事を書いたのを見かけたことがあります。


私も、中川智正さんをブログのテーマにする以前なら、
かつてのオウム信徒がようやく「麻原は宗教者以前に犯罪者」だと気づけたと
ほっとして、それで終わりだったと思います。


それほどまで、オウム真理教は宗教以前の危険なテロ組織と考える方が
楽なのです。宗教面を見ない方が楽なのです。


そう、私も実は1996年当時、小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』を読んで
何となく、「オウムはテロ組織」と納得していました。
小林よしのり氏の視点は坂本弁護士一家失踪事件以後のプルシャの存在から見通していたので、とても分かりやすいものでした。

 

 


その上、小林よしのり氏もまたVXでオウム真理教から狙われたので、余計に氏のいうことが正しかったというのも変わりません。

しかしですが、オウム法廷において、教祖が不規則発言に終始し、かわって弟子が自分が入信した背景や関与した事件を、裁判官が要求する以上に詳細すぎるぐらい、死刑を覚悟して語ったことを知った今は、

中川智正さんが書いているように、
「ある人物が危険な宗教やテロ組織に入る背景と、実行犯になってしまう背景を区別して考えるべきだ」という面でオウム真理教を見ようとしています。

それでなければ、今も後継団体が存在し、事件前には日本とロシアで数万人の信徒がいた団体がどのようなものであるか、については分からないのではないかと思います。

 

最近はオウム真理教について、一年のうち二度、取り上げられる時期があります。

一つは地下鉄サリン事件のあった3月。
もう一つは、オウム真理教事件関連で死刑が執行された7月。

 

それ以外にはオウム真理教事件についてはほぼ取り上げられません。

逆に考えるなら、オウム真理教事件地下鉄サリン事件から語ってしまうことで

かえって理解できないのではないか。

地下鉄サリン事件の頃の教団は内部崩壊が始まったころで、当初は神秘体験を信徒に導くような修行形態であったのに、薬物をつかうようになったり、ナルコやニューナルコなどの記憶消しも行われるようになりました。

今、オウム真理教の生き証人として動画やイベントに出てきている人は、実はそれほど

地下鉄サリン事件前後の教団状況を掌握できていたわけではないです。

ロシアから急遽帰国したから。

それでマスコミ対応をしていたため、今もその時の知識で、薬物の話などを出しているように見えます。

 

中川智正さんが確定死刑囚になる前に朝日新聞記者に言ったように

 

「事件の動機や背景が、少なくとも事件を知らない世代の方が分かるような形では、記録として残されていない」のです。
せいぜい、裁判傍聴の時の言葉ぐらいで、

それらは降幡賢一『オウム法廷』シリーズなどです。

 

私は、中川智正さんを初め、オウム法廷で登場する人たちを読んでいて、
みな入信の背景が異なっており、教祖との関係が異なるため
ここまでいろんな考えを持っていたのだと初めて気づいた次第です。


最後に、魚崎仁が逮捕された時、出身の灘高校の数学科教諭が、彼にメッセージを
出しています。それを掲載します。

(『サンデー毎日』1995,11,5より)

 

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「刑事事件としてのオウムは僕は有罪であると確信しています」

「君達がオウムに自分の未来のすべてを預けた根拠を、君達自身の口からはっきりと
世の人に伝える必要があると思うのです。」

君達のいうことが、たとえ世間では荒唐無稽と思われようと、心のたけを君たちが語ることの大切さを知っていて、真剣に耳を貸す人は必ずいると思います。

灘高校の数学科の先生が言われた通り、なぜか成りゆき上、
私は、「荒唐無稽と思われても、心のたけをもっと知りたい」がため、
少ない資料を継ぎ合わせて、オウム真理教を知ろうとしています。
自分の少ない脳みそと頭を使って、何とか考えようと苦労しています。

 

サンデー毎日』の記事で、灘高校の先生の記事が素晴らしかったので、掲載しました。その後に、「挫折を知らないエリート集団」とか色々ありましたが、それと

オウムを信仰したことにはあまり因果関係はないのではと今なら思います。

受験で培った学力や、医師免許をオウム真理教のために捧げてしまったのは事実だけれど・・・。

最後に、中川智正さんがなぜ入信したのか、事件に関与したのかについては

『現代化学』にさえも書けないレベルのものであったことです。

なので、「私個人ではなく」と断っています。

本当は中川さん自身のことをどこかで語ってほしかったけれど、この状況ではまだ難しいものがあるということを感じます。

 

 

どうして捕まえてくれなかったのでしょう。都庁の職員の指が飛ばされる前に

この言葉は1996年5月21日の中川智正第五回公判にて、

中川さん自身が「事件全体について、二点述べたい」と珍しく意見陳述をしたなかの

言葉です。

 

調書では「テロ」という言葉が出てくるが、その意識は仲間うちにはなかった。

逮捕されてから分かったことだが、事件を起こした当時、自分たちは公安警察の監視を受けていたことだったと話した後

 

「悪いのは私、すべての責任は私たちにある。ですが、どうして捕まえてくれなかったのでしょう。都庁の職員の方の指が飛ばされる前に」

仲間の名前を挙げて、皆が指名手配され、所在確認もされていた現状を話すうちに

中川さんは興奮して泣き出してしまったのでした。

 

オウム真理教関係について勉強するにつれて思うことは、

オウム真理教関係事件は未然に公安の情報調査と実行がなされていれば、食い止められた部分が多々あるのではないか、ということです。

 

私は当時、視聴者としてテレビ番組を見ていただけなのですが、

今回、地下鉄サリン事件以降のオウム幹部の動きを追う作業をして、地下鉄サリン事件の実行犯でもあった井上嘉浩や林泰男中川智正豊田亨も皆いつしか警察の監視を受けていることにも気づきながら、林、中川は電車に乗ったりして移動もしています。

以下の年表は、降幡賢一『オウム法廷』2下の、井上嘉浩被告、東京都庁小包爆破事件、新宿青酸ガス事件の検察側冒頭陳述要旨などより作成しました。

 





 

私たちがテレビで見ていたこのシーンなどは、「トカゲのしっぽ切り」だったのですね。上祐氏は「あほな事やってます」と慣れた感じであったけれど、

人前で話すことが苦手な村井秀夫までがなぜテレビにでるのか?

 

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麻原の指示でそうなったということが、早川紀代秀さんの証言でうっすらわかります。

この証言は、この本に書かれていました。

早川紀代秀さんは「恐ろしくて本当のことを確認できなかった」けれど、

村井秀夫に責任を負わせる感じは当時からあったとのことです。

 

 

村井秀夫は自らテレビに出つつも、捜査攪乱を実行信徒(井上嘉浩、中川智正豊田亨ら)に指示もしており、上九一色村から都内まで移動してもいます。

村井秀夫は、地下鉄サリン事件実行者から見ると、逆らえない権力者に見えますが、

教団内では地下鉄サリン事件以降、麻原の信を失い、責任を取らされる立場となります。

今回ブログ書いていて、恐ろしかったのは、

新宿駅青酸ガス事件の時、すべて失敗に終わりながらも、実行犯は電車を使用して新宿駅にやってきていて、装置を設置していたということです。

実行犯は、いずれも他のオウム真理教事件の実行犯でもあったのですが、その人物を世間では、追い切れてなかったのです。

テレビのオウム真理教組織には出ていなかった人物ばかりであったのです。

それが、麻原や村井の指示によりテロを起こそうとしていたこと。

それをテロとは思わず行動していたこと。

あくまで麻原の逮捕を防ぐのと、警察の捜査をかく乱するために、却って事件を起こし、都庁小包爆破事件では重傷者を出してしまったのです。

都庁小包爆破事件の時は、林郁夫が自白したため、中川智正の名前が新聞紙上でも見られるようになったころです。(朝日新聞での初見は5月12日でした)。

中川智正さんは、だから

「自分たちの移動やアジトへの出入り、どんな服装かも警察は正確に理解していたことが取調のときに分かった。それなら私たちだって爆弾作ったりしなくて済んだし、なによりも都庁の職員の方を重症負わせてしまう前に、なぜ逮捕してくれなかったのですか?」と言ったのです。

犯罪者から公安に対し、こんな言葉が出るとは

平成の初期から、実は国民の安全を守るべき警察や公安が適切に機能していないことを

示すものだと思います。

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これは家族の会会長・永岡弘行氏視点から見たオウム真理教の番組ですが、

本を読むのが出来ないならば観て欲しい動画です。

 

オウム真理教が危ない宗教だと都庁や、警察に坂本弁護士事件の前後から伝え続けても、動かない。何か事件が起こるまでは、誰かが実際に傷つくまでは。

これが恐ろしい事だと思いました。