僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

5回目の7月26日を迎えて

本日は7月26日。
ここ数回のブログに登場してもらっている
林(小池)泰男さんのほか、6名の方々が、自らの命で罪を償われた日でした。

多分テレビでも特集も組まれないように思います。

 

 

林泰男さんは、外部交通者でもあった、田口ランディさんに
死刑になることについて、このような手紙を書いていたようです。

逆さに吊るされた男 (河出文庫 た 48-1)

 

「現在の私の人生は、死刑囚として独房で生活し、日々贖罪のために刑の執行を待っている、というものです。もちろん刑の執行のみが贖罪なのではなくて、すべての日々の生活が贖罪となるものです。


だけど、私のこの生活がほんとうに贖罪となるものなのか私にはわかりません。


私は罪について、反省について、自分の思いをうまく説明することができません

ほんとうは、格好をつけて、いつでも死を受けいれる覚悟がありますと言いたいところですが、覚悟なんかありません。


ただ、死刑になるときは、執行のボタンは自分で押したいです。
あるいは足元の扉は開けておいてもらって、自分からそこに飛び込みたいです。
ロープも自分で首にかけさせてもらいたいです。
刑務官の人に、人を殺すという負担をかけたくないんです。
もう誰にもなんの負担もかけたくない。誰にも苦しみを与えたくない
そう思います。」

おそらく、1998年ぐらいのやりとりかと思いますが、このようなことも書かれていました。

「先日、雑誌に掲載された林郁夫の手記を読みました。殺人者は、人から反省しろ、言われることが多いのですが、反省とは、どういうことなのかと考え出すと、わからなくなります。ただ、私は林郁夫が見せたような、ああいう反省の仕方はしないという意味で、私にとっては一つの指針となりました」

 

林(小池)泰男さんは、東京拘置所から仙台拘置所に移送されて、
このような気持ちを持ちながら、刑に服したのだと思います。

もっとヤスさんの言葉を聞きたかったです。

 

7月26日に処刑された方々の多くは、地下鉄サリン事件の実行犯だった方です。

(ヤスさん、豊田亨さん、広瀬健一さん、横山真人さんなど。

宮前(佐伯)一明さんは、坂本弁護士殺害事件で、端本悟さんも坂本弁護士事件の他、

松本サリン事件に関与)

彼らの体験を見聞きするに、もし自分がオウム真理教にいたとして、麻原や村井秀夫に知られて、実行犯に選ばれてしまったならば、現世の刑法によって裁かれて死刑になる可能性があったかもしれないと思わせられるほど、教団に入るまでの思い、教団での生活、麻原との関係、事件に関与・・・。読めば読むほど考えさせられます。

 

ヤスさんも本当はもっと外部に自分の言葉を発信したかったのかもしれない・・・。

私もヤスさんたちの言葉をもっと聞きたかったです。

それがかなわないため、少しでもカルト宗教に心を捕らわれてしまった人の体験記を

見つけては読んでいる最中です。

理解が中々追いつかないです。

 

最近、二冊の本を見つけました。

一冊はこちら

「カルト」はすぐ隣に  オウムに引き寄せられた若者たち (岩波ジュニア新書)

もう一冊は

カルト宗教事件の深層: 「スピリチュアル・アビュース」の論理

 

探した基準は、杉本繁郎さん(現在、無期懲役として山形刑務所に服役)の体験記が

掲載されているからです。

 

オウム真理教の死刑囚がいなくなってしまい、

オウム真理教での体験を語ってくれる貴重な方の一人です。

 

杉本繁郎さんは、地下鉄サリン事件のときに、ヤスさんを送迎しました。

その他教団内のリンチ事件で殺人に関与して、無期懲役となりました。

広瀬健一さんや横山真人さんは、教団でのリンチ事件などの殺人事件に関与していないのに、地下鉄サリン事件での殺人(広瀬健一さんの路線では1人、横山真人さんは犠牲者を出していない)と、自動小銃密造事件で死刑となりました。

杉本繫郎さんは直接殺人事件に関与しています。

現世の法律、裁判の力点が教団武装化に重きを置かれた結果で広瀬健一さん・横山真人さんらは死刑になってしまった・・・。

 

このブログでは中川智正さんについて書いていますが、

次に書こうとしている内容の前に、杉本繁郎さんの体験を紹介しておきたいと思います。それは、杉本繫郎さんは藤田庄市さんに

「(オウムで無自覚のうちに意識変容、呪縛があったことを認識できたのは)麻原や教団から離れ、かつその情報等を完全に遮断した状態で私なりに考え続けたものの、

21年の歳月を要した末の結果」と書いています。2016年のことだったとのことです。

 

前回のエントリーで、林泰男さんは新宿駅青酸ガス事件の頃、逃亡生活中に逮捕されたら自分らは死刑になると中川さんに言ったが、中川さんは、自分たちが死刑になるとは全く考えていなかった、にもかかわらず、逮捕されて取調の時には「私は死刑ですね」

などと警察官に話したりしているのがあまりにも無自覚なのに気づいたのです。

中川さん自身は、実際どこまで

自分の中の「二つの人格」を意識できていたのでしょうか。

中川さんも東京拘置所生活で、麻原の姿なしに守られた生活の中で、ある程度は

気づきがあったに違いないですが、中々そのことを自分で言語化するレベルまでは至れなかったのではないかとも思いました。

せっかく郵便のやり取りが出来る相手となった江里昭彦氏も残念ながら、オウム真理教に関する理解は、私たちが事件時にテレビやマスコミを見たそれとほぼ同じぐらいなのではないかと思ったからです。

「ジャム・セッション」と銘打ちながら、中川さんの話を引き出すというのまでは力及ばないまま、中川さんの死刑が執行されたのが残念です。

 

ヤスさんや、杉本さんは、教団に疑問を持っていた人だったのですが、

その人たちでも21年もオウムの呪縛から逃れるのに時間を要していたのなら、

中川さんはもっと深いに違いないと思ったので、またここでも「寄り道」をすることとします。

 

江川紹子氏の著書に掲載されている杉本繫郎さんの手記は、

「第3章 ある元信者の手記」です。

 

杉本繫郎さんは、大卒後、身体の調子が悪かったり、仕事がうまくいかなかったりしたある時に、麻原彰晃の本に出会ったのです。

ヨーガについて、杉本さんがしていた体験を言語化した記載を見て、どうしても会いに行きたくなったとのことです。

麻原の元で修行をはじめて約10日のうちに、自分の意識が体から抜けて行く体験や、三人のチベット僧からの祝福を受けてエネルギーが上昇していくような感覚などをし、

麻原を師匠と心底から思い込むようになったということです。1986年の頃とのことです。

杉本さんはこのように書いています。

「信者となった他の人たちを見ていても、オウムにのめり込む上で、「神秘体験」は大きな要素でした。

ただ、ほんとうは、ヨーガの行法によって何らかの身体的変化が起きるのは、いわば当然なのです。問題はその変化が、本当に「神秘体験」などと呼べるものだったのか、ということです。

セミナーに参加している人の大部分は、セミナー中に何らかの「神秘体験」をしたい、あるいは自分の身体に起こった変化を「神秘体験」と言ってもらいたい、という願望を胸に抱えています。

このひょうな人たちは、あまり意味のない体験をしたとしても、「それはアストラルの体験ですね」とか「クンダリニーの上昇ですね」など、自分が求めている答えが得られるまで質問し続けるのです。

こうして、意味のない体験が、いつの間にか意味のある「神秘体験」として認識され、自分は貴重な「神秘体験」をしたと思い込む自己満足の世界に浸っていくこととなるのでした。

もう一つ、多くの人が麻原を崇拝し、教団に出家したのは、次のような我々の疑問に、麻原が一つの答えを提供したからです。

 我々は、なぜ生まれ、なぜ死んでいくのでしょう。そして、我々はどこからやってきて、死後はどこへ行くのでしょう。

(中略)

輪廻転生などは、麻原独自のものではなく、日本でも仏教の教えとしてよく知られているが、麻原の言葉が作り出す世界観にリアリティを感じ、あたかもそれが現実のものであると思い込んでしまったのです」

 

そのようなことを書いた杉本繫郎さんは、教団を抜け出したことがありました。

1993年2月でした。

麻原の運転手をしていた杉本繫郎さんは、麻原の行動の秘密を知って、言っていることとやっていることが違うと疑問を抱き、麻原から理不尽に怒られることが続いて不信感が溜まって広島の実家に帰ってしまったのでした。

 

そうしたら、何人かの古参信者が教団に戻るように説得にやってきたとのことです。

その古参信者の一人が、5年前の今日死刑となった林泰男さんでした。

「尊師に挨拶もしないで下向するのはよくない。とにかく尊師に挨拶をしてからにしましょう」

それで杉本さんが戻ったのは、やはり麻原は特別な存在であり、裏切ったら無間地獄という恐怖もあったので、麻原に直接教団を離れたいというつもりで広島から教団へと戻ったのでした。麻原の承諾が欲しかったのでした。

 

教団に戻ってきた杉本さんにたいし、麻原は優しい対応をしたのでした。

「お前を帰すことは、私にとっても大きな賭になる。お前は教団の秘密をあまりにしりすぎているから」といい

最後に、満面の笑みをうかべて

「お前には、一緒に死んでほしかったのだが」

どなられるよりも、その笑顔に底知れぬ怖さを感じてしまったのでした。

 

そのあとに、杉本さんは二つの信徒リンチ殺害事件に関与することとなります。

 

そして地下鉄サリン事件の前日の早朝に、林泰男に車の運転を頼まれたのでした。なんのためかは、指示の理由や目的を聞かないという不文律があったので聞かず、合計7人が東京に向かったのでした。

7人中、4人が「科学技術省次官」でした。林泰男広瀬健一豊田亨横山真人の四人で、杉本さんは林泰男以外の3人の次官に対しては学者と思って、何か大変なことをさせられるという心配もせずに東京までの車を出したということです。

杉並のアジトで、林泰男が井上嘉浩と待ち合わせをしている時の会話から、良からぬことをやろうとしているのは感じたとのこと。

車の中で、広瀬健一さんと二人きりになった時間があったのですが、広瀬健一さんは杉本さんからみて、「告げ口」をしない人だったので、「今回は何をやるの?」と聞いたら、広瀬健一さんは怪訝な顔をして「地下鉄のような密閉空間で撒いたらどうなるか、の実験」と答え、杉本さんが「何を撒くの?」と聞いたら「サリン」。

何のためにと聞くと、広瀬健一さんは「強制捜査を阻止するため」と答えたということでした。

杉本さんは広瀬さんに

「そんなことをしたら招き猫になっちゃうんじゃないの?」

 

オウム裁判においては、途中から杉本さんは、地下鉄サリン事件の実行犯であった広瀬健一豊田亨さんと3人で受けることとなりました。

それは信徒リンチ事件について自首が認められたこともあったと思います。

杉本さんは、

「実行役になるのも、運転役になるのも、麻原が決めたことです。私も実行役に選ばれていたら、広瀬健一豊田亨と同じように行動していたでしょう。麻原が誰を何の役に指名したかで、生と死が分かれるというのは本当にいたたまれない気持ち」と記しています。

 

オウム裁判のうち、広瀬健一豊田亨・杉本繁郎の三名一緒の公判は、異質であったと思います。

私が見た21の死刑判決 (文春新書)

 

3名とも、法廷内で私語をせず、顔を合わせて自分のしたこと、思いを証言していく裁判で、2000年7月17日の一審判決で広瀬健一豊田亨は死刑、杉本繫郎は無期懲役と言い渡されました。

その瞬間、動揺したのは、死刑になる広瀬健一豊田亨ではなく、杉本繫郎さんでした。

罪悪感を認識したかのように、顔を真っ赤に膨れ上がらせて、豊田・広瀬のほうをみる杉本にたいし、死刑判決を受けた豊田・広瀬は正面を見据えたままでした。

 

2009年5月に、藤田庄市さんは、刑務所に移送される杉本繫郎さんに面会をすると、

「言葉が見つからない、自分が今、生かされていること自体申し訳ない。刑に服しても償えないことはわかっている。どうしていいかわからない・・・・」と

突然わっと涙を流して、声を震わせたとのことです。

 

7月26日処刑の方々についても触れてみたくて、今回は少なくなってしまったオウム事件語り部である杉本繫郎さんにご登場願いました。

 

麻原の命令によって偶然実行犯、運転手と決められたことが、現世の法でまた死刑と無期懲役に切り分けられた事実を思いながら、この日を過ごしたいと思います。

横山さん、端本悟さん、宮前(佐伯)一明さんについてあまり触れられなくて残念ですが、ご冥福を祈っております。存在を忘れてはいません。