僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた」

私はこの証言を書物で読んだのは
藤田庄市氏のこの著書内でした。

 

宗教事件の内側: 精神を呪縛される人びと

中川さんが死刑になった直後に、一番欲しい情報が掲載されていた本で、

今も手許においています。

新宿駅青酸ガス事件のときに共犯者であったヤスさん(林泰男)の証言ですが、
最初にヤスさんが法廷でこの話をしたのは、中川公判に呼ばれたからではなかった
のです。それを前回のブログでは誤解していました。

ヤスさんは、当時の共犯者の様子を答えていただけで、中川さんについて
何か有利になるとかそういうことを考えてこの話をしたわけではなかったのです。

今回のエントリーでは、中川さんが逮捕される前、新宿駅青酸ガス事件の時の
このヤスさんの言葉を読んでいきたいと思います。

このヤスさんの証言は、新宿駅青酸ガス事件共犯者部下2名(刑期満了者)の
法廷(1997年7月22日)でのものでした。

ヤスさんは、部下二名は犯行に加担はしたが、深い事情はしらなかったと述べて、
二人に詫びました。その上で、教団が強制捜査を受けている中での生活状況を
証言したのでした。

この部下二名を犯行に巻き込んでしまったのは、井上嘉浩・中川智正林泰男
所在を探されている立場だったから、自由な活動ができなかったためだと。

新宿駅青酸ガス事件は一回目が失敗し、5月3日の二回目の実行の際、ヤスさんはまた
自分がやらされるのかと嫌な表情をしたら、それを見ていた中川さんが、
「今度の装置は複雑だから、ワシがやるわ」と

※ワシ(儂)
当時のオウム真理教幹部の一部は、自分のことをワシ(儂)と呼んでいたらしいです。
これは元信徒・MPプロジェクト氏(@P48338092)のブログにあります
 

中川さんもこの時はワシを使っていたようです。

中川さんが仕掛け役をやることにはなったけれど、新宿駅までこの部下2名とヤスさんと女性信徒がついていくこととなりました。

地下鉄サリン事件後ではあったのですが、中川さんたち一行は、京王線に乗車して(切符に指紋をつけないようにして)移動していたのが驚きです。
個人的には地下鉄サリン事件では被害に遭遇しなかったものの、
当時の通学路線の一つが京王線でもあったため、ニアミスしてなかっただろうか?
と一瞬思ってしまいました。

それはともかく、ヤスさんから「指紋つけるな」と注意を受けた部下信徒が、
自分が犯罪に関与しているのかもと思ったのか、精神的におかしくなってしまった
ようです。彼はアジトに一人帰されました。

それで、今回のタイトル「中川君は怯えていました」
これは、5月15日に井上嘉浩・豊田亨が今のあきる野市あたりで逮捕され

翌日に麻原彰晃が逮捕されてしまったので、
八王子アジトにいた中川さんは、永福アジトに転がり込んで来たのでした。

 

以下の証言は江川紹子氏の著書の方が詳細でした。

「オウム真理教」裁判傍聴記 2 (文春e-book)

 

「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた。

夜も眠れないようで、ガバッ起きて窓の外を見たりしていた。

中川君は、『自分のしたことに耐えられない。これ以上悪業を積みたくない』と泣きながら僕(ヤスさん)に言っていた。そこへ、諜報省次官の某君が入って来て

『何か作ってないから、心が不安定な状態になるんだよ』と言い出した。

中川もそれに同調し、もう一度(何かを作るために)薬品を取りに行くことになりました」

 

ヤスさんは、中川さんのこの様子が恐ろしかったようです。

「せっかく心の中の良心が出てきたのが、諜報省次官(信徒)の一言で元の精神状態に戻ってしまう」と。

 

藤田庄市氏の著書によると、この林泰男証言は、中川公判の控訴審で重視されました。

諜報省次官は、中川に向かって「尊師を意識して」と元気づけたら、突然「これから頑張る」と元気になったとのこと。その急変が

恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。これまで長く話して心を見せあっていたのに、中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのを感じて怖い感じがしました。

 

私もこの話を一番最初に目にした時、ぞくっとしました。

それと同時に、中川さんは他の信徒とは違う何かがあるとも思いました。

前回のエントリーでは杉本繁郎さんと麻原の法廷でのやり取りを長々と紹介しましたが、杉本さんと中川さんの違いを知ってほしかったからです。

杉本さんも古参信徒だったから、麻原とは長い付き合いだったと証言していますが、

杉本さんは裁判中に麻原に「あなたはグルなんですか」と言えていました。

それでも本人とすれば、刑務所に収監されて、オウムとの生活をきっぱり断絶して、

オウムの考え方から解放されるのに21年もかかったということです。

法廷のやり取りだけで、杉本・豊田亨ならば教団と離れられている、と我々は思ってしまいがちですが、一度精神的に捕らわれた状態になると、それを断ち切るのに十年単位の長い期間を要するのです。

ましてや、中川さんは杉本さんのようにはなれないでしょう。

それは杉本さんが無期懲役で、中川さんは死刑執行されてしまったからではないと思います。

中川さんは、麻原と精神的な共依存にあったのではないでしょうか

おそらく、東京拘置所の特別配慮があったから、死刑囚として状態がよいまま(良くはないでしょうが・・・)広島に移送されて死刑執行まで行ったと思います。

 

それに気づくきっかけを藤田庄市氏の著書で得ることが出来ました。

 

まだ全体としては中川さんの一審が全く終わっていないのですが、この藤田庄市氏の著書に掲載されている中川の「麻原化」について、紹介したいと思います。

控訴審の時には、法皇内庁で中川の部下であった女性信徒が証言したようです。

「麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかがわからず不気味でした」

ダブって見えたのはいつかについては、

「部下になった1994年。中川さんと話しているとき、背後に麻原がいるようにダブって見えました。意識として(麻原を)感じました。中川さんは麻原の影が重なっている。一対一で話す感覚ではありませんでした。」

「よくわからない。どうなっているんだと常に思っていました」

 

もう一人、法皇内庁時代の部下も

「中川の強い印象エピソードは?」と問われて

「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩していた」

「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色が悪い」のだけど、麻原の部屋に入り、出てくるときは回復して調子良くなっていることが何回もありました。

 

今回、このブログを書くにあたり、出家以降の中川さんの写真を集めたので、それを並べたのが上です。

顔が同一人物かどうかわからないぐらい、差があるように私も思いました。

むくみが酷い(左上)とか顔色が悪いものが多いです。

この元信徒女性が「視覚的に麻原と会って体調が変わったのがわかるのは中川さんだけでした」と言っているように、麻原と会って体調が良くなった信徒は他にいるけれど、

中川さんのそれは違うのだとのこと。

 

「中川さんは神秘体験イコール日常生活と双方が重なっていました。意識がどうなっているのかわかりませんでした。」

「中川さんは前世や来世の話を良くして、その世界を体験として、事実として知っている感じでした」

「神秘体験の波に中川さんは苦しそうにしており、助けが要るように見えた」

 

中川さんのそんな状態を助けた一人が、村井秀夫さんだったのではないか?とも思えます。それは、以前の記事

で触れたように、地下鉄サリン事件の少し前に、中川を修行に入れて(他人から見て暴力だとしても)麻原の体調をよくしてやろうとしていた。

中川がサリン製造するときに、ヘッドギアを付けないで作業していることを𠮟ったことなどから。

 

麻原、中川、村井の三者の関係について、もっと中川さんから証言を聞きたかったです。なぜ、教団から逃げる発想がなかったのか、その一端が少しわかってくるかもしれないからです。