僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「尊師は信じる、信じないの対象ではなかった」

中川智正さんが死刑執行されてから、ちょうど5年が経ちました。

私は中川さんが死刑執行された報道に接し、
そういえば、私は中川さんという人を知らないと思い、
中川さんに関する書籍や事件当時の新聞記事あさりを始めてしまったことで


5年後の今でも続く自分の勉強テーマの一つになってしまいました。

調べれば調べるほど、どのように取り上げたらよいのか分らないぐらい
毎回ブログ書く時に苦しんでいます。

おそらく中川さんについて、世間の少しオウム真理教に興味を持つ人は

・麻原に騙された
・麻原にマインド・コントロールを受けた
・宗教冷やかしをしていたらオウムに取り込まれた
・医学の限界を感じた

などなど評価するでしょう。

中川さんは、麻原氏の指示で事件を起した自分が処刑されるのは
仕方がないが、
オウム真理教に関して、当時の報道だけで切り取って
評価してもらいたくない、
誰か体系的にオウム真理教と起した事件について
日本でずっと読まれる書籍を書いてもらいたい、
そのためであれば
自分は協力したいと思っていたのかもしれません。

森達也氏は数少ない一人だったと思います。


前回のエントリーから、新宿駅青酸ガス事件・都庁小包爆破事件で共犯者であった
林(小池)泰男(ヤスさん)に登場してもらっています。
今回もヤスさんの裁判において、中川さんが証言した言葉を紹介したいと思います。


林泰男第8回公判(1998年3月23日)のときの証言です。

検察官から「今も教祖に帰依し、信を置いているのか」

と聞かれた中川さんは

その言葉にはいろいろ意味があると思うが、
私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたわけではない。
もともと尊師は信じる、信じないの対象ではなかった

と証言しました。

これは、ヤスさんが、麻原に対する恐怖心と自分のそれとは違うということを
示すものでした。
偶然とはいえ、裁判では当時あまり証言していなかった中川さんにしては
めずらしく自分の言葉で伝えようとしていたと思います。

 

 

(法廷画は、「朝日新聞」1998年3月28日朝刊より)

 

ちなみにヤスさんは、
麻原第66回公判(1998年2月13日)で

「なぜ地下鉄サリン事件で実行役に選ばれた時に断れなかったのか」
に対して

「断れば制裁があると思った。
恋人との仲がばれて殺された友人と同じことが、自分にも起こると考えた」
という恐怖の気持ちを証言したのです。

サリン散布時に教団の教義を考えなかったのか?という質問にも
「その場では考えなかった。直感的、潜在的には人を傷つけ、人の命を奪うのだから、
ヴァジラヤーナによる救済だとか、ポアだとか関連して、仲間は考えていたと思う」
と、自身と他の共犯者との間には違いがあることを示唆していました。

さらに
「自白剤を使ったり、周囲の間違った報告をうのみにしているのをみて、
相手の心の状況を読む、といっていた麻原の能力には限界があると思った。
オウムは間違っているとわかったが、
しかし教団を抜けよう、逃げようとしても不可能だし、
仮に逃げおおせても見つかれば自分の命はないだろう、と思っていた」

証言しました。

おそらくヤスさんの証言を読んだ人は、
オウム事件の報道とも関連させて、
「オウムが間違っていることを分っていても、麻原に自分の心がバレてしまったら
殺されるのが怖いまま、たまたま地下鉄サリン事件で実行犯に任命されてしまった
ヤスさん。もし自分がヤスさんの立場であったなら、やはり同じことするだろう」
と納得する人も一定数いると思います。

私はヤスさんの行動で、よくオウムが理解できた気がしました。

教団が誤った方向に進んでおり、そのガンでもある村井秀夫の部下で
科学技術省次官に異動になったのは、ヤスさんはしんどかったろうな・・・と。

ヤスさんの立場、思いと対比させるための証言として
中川さんは出廷することとなったのだと思います。

 

ヤスさんの弁護人・中島尚志氏の著書によると

 

オウムはなぜ消滅しないのか

中川さんは
捨て鉢的な態度と強力なエネルギー」を感じる人物であったと記されており、
中川さんには、霊的な事柄に敏感に反応する能力があると感じたとのことでした。
中川さんと教祖との間には、霊的な共鳴現象が起こっていたと

ヤスさんは、当時の教団や教祖の姿勢についていけなくて
教団にいる以上、その指示を破れば他の人みたいに殺されるのが
「恐怖」と言いました。

中川さんのいう恐怖とは、ヤスさんのそれとは全く異なるものです

 

「私は尊師に殺されるというような、他の人がいう恐怖を感じたことはない。
それとは違って、例えば、私を何者だと思うかと尊師に聞かれたとき、
僕は、(尊師は)化け物だと思います、と答えた。そういう恐怖だった。
尊師はある種の自滅行為をしていたと思う。
そういうことをやりかねないことは、尊師も言っていたし、
僕は入信前からわかっていた」

そのような自滅的行為に、できれば「自分は関わりたくなかった」
しかし、入信前にいろいろと神秘体験をして、

普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれ、という感じで入信した。仕方なかった。
僕としてはその後いろいろなことがあっても、
しょうがない、という感じで冷めていた」

裁判長から

「すると犯罪になることでも救済のためには許されるという教義があるので、
犯罪行為に加わった、と他の被告たちはいうが、あなたはそう考えていなかったのか」

 

「私は教義で許されるから犯行に加わったという認識はない。
林(ヤス)さんは、地下鉄サリン後、自分たちは死刑になる、と言っていたが、
林さんは個人主義でマイペースな人だからそう考えるのだと思う

私は全然、死刑になるなんて考えていなかった」

 

想像以上のことを言っていますが、
あまり中川さんのこの証言を取り上げた人はいなかったと思います。

中川さん自身は、その後、このヤスさんの公判で話したことをベースに
教団や麻原氏に関する質問をされた場合に回答していたように思うのです。

 

それにしても、ヤスさんは、中川さんからみると「個人主義でマイペースな人」なのか・・・。

そして、週刊誌では「取調中に良く泣いて、オウムを狂団といい、
私は死刑ですね」などと書いてあった、そのような言動もしていながら、
ヤスさんのように死刑になるとは全然考えないで逮捕された中川さんの
この両面性をどのように捉えたらよいのでしょうか。

全く判りません・・・。

 

中川さんは、このヤスさんの裁判に出廷して証言した言葉を
形を変えて語り続けていたように思います。
それだけ、世間で報道されている「中川は麻原にマインド・コントロールされた」
というのが違うことを理解してもらいたかったのだと思います。

 

江里昭彦氏との同人誌「ジャム・セッション」には

そのようなエッセイが掲載されています。

 

第10号(2016年12月号)には

麻原氏は膨大な説法や著書を残していますが、その中には

「私を人間と見てはいけない」

「自分は弟子のためにいる」

「自分が救済のためにボロボロになるのは本望である」

「私には苦が存在しない」

などという趣旨の話があります。

今から思うと、当時の麻原氏は、その頃私が考えていたよりもずっと無理をしていたのです。

 

さらに第7号(2015年6月)の俳句には

 

逮捕前の教祖について

 

亀鳴くや齢のしれぬ沼深く

 

と詠んだあとのエッセイで

 

「私は、法廷で『殺されるとかそういう意味ではなく、麻原氏のことが恐かった」という証言をしました(念のためにいうと、麻原氏が恐かったから麻原氏に従ったという意味ではなく、麻原氏に対して感じていたことの一つをこう述べただけです)。

 

教団内での麻原氏は、教祖としての威厳を保ち、信者の掌握から教団の運営に至るまで卓越した能力を発揮していました。

私は麻原氏の日常生活を知っていましたが、信者の前だけ教祖を演じていたのではなく、日常的にも教祖でした。

それだけではなく、あの頃の麻原氏には、

この生命体は何年生きているのだろうと思わせる底知れぬ部分がありました。

彼の生まれ年は私より七年上です。

しかし麻原氏に接していると、時折、この人物は何百年、何千年と生きているのではないか、と感じてしまうのです。私はそんな麻原氏をすごく恐く思いました。

(中略)

山梨の田舎のソファーに座っている目の不自由なこの人物が千人以上の人間をいいように動かしている。

その中には殺人に関わる者がある。

月に何千万とお布施を集める者もいる。

何十人と入信させる者もいる。

自分も必死になってこの人に従っている

ふと、この人は何者なのか、何で皆この人に従っているのか、この人の中の何が人を

惹きつけているのかと考えた時、恐ろしいものがありました。」

 

そのように教祖をみていた中川さんに、教祖が世間話でもするような口調で

「お前は私を何者だと思うか?」と聞くと

中川さんは

「言葉は悪いと思いますけれど、化け物だと思います」と答えたとのこと。

麻原氏はその言葉を聞いて黙って微笑していたとのことでした。

 

教祖以下6人の死刑執行日だからこそ、

今年は、中川さんの、ヤスさんの公判にでて話したことが核となった、このエッセイを

思い巡らすこととしたいと思います。

 

むしろ、マインド・コントロールにかけられて事件を起こしたとでもした方が

世間的にも「わかりやすい」のかもしれません。

でも中川さんはそれを何とか違うと言いたかった。機会を求めては違うと書き続けたのですが、同人誌をともに作っていた人にも理解されないまま執行されてしまったのは

残念だったと思います。

 

中川さん本人は、結果として25人もの殺害などをしているため、死刑は免れないことは承知していたと思いますが。

麻原氏の元に居る限りは、死刑になる発想さえ、当時はなかった。

取調官の前では、現世の人として接しながら、死刑にはならないと考えていた。

 

この理解しがたい中川さんを取り巻いていた何かを見ようとして、力不足を感じます。

ヤスさんの言うことは何とか理解できますが。

 

理解しようとして、あえて理解できないものをそのまま出すということを

今年はしてみました。