中川智正さんが逮捕されたのは、1995年5月17日でした。
その前日に教祖が逮捕されています。
当時の新聞には、上九一色村で病気の教祖に付き添っていたなどと書かれていましたが、実際は教祖の命令により、テロリストとして都内のアジトを転々とした末、警察に身柄を拘束されたのでした。
その時の様子は「産経新聞」1995年6月7日東京夕刊に次のようにあります。
5月17日午後10時、東京都杉並区永福二丁目の住宅地の路上で、周囲に不自然な目配りをする男が、警戒中の警視庁高井戸署の地域課員の目に留まった。
異様な髪型に丸みを帯びた体。風ぼうは違うが、紛れもなく地下鉄事件の手配容疑者だった。
「中川だな」。捜査員が職務質問する。だが男は黙秘。任意同行を求め、身体を捜索すると不自然な髪はかつらで、体重も80キロほどに太っていたという。
「罪の意識もなく、逃亡を重ねるつもりだったのだろう」(捜査員)
前日の麻原被告らに続いて、中川容疑者は約一時間後、地下鉄事件の殺人容疑などで逮捕された。
カツラを被って変装し?(どのようなカツラだったかは不明だが興味はある)、周囲に不自然な目配りしながら路上を歩く男・・・。
この2日前、共にテロ行動をしていた井上嘉浩さんと豊田亨さんらが逮捕されてしまい、八王子アジトにはいられなくなったため、永福アジトに転がり込んできたらしい中川さんは、自身の逮捕も間近だと予測しつつ、一方で「テロを起こせ」という教祖の言葉に忠実に動いていたようです。今度はその教祖までもが逮捕されてしまった。
「もう逮捕してくれ。どうせ自分は死刑だから」という思いでアジトを出ていったのだろうなと思います。
わざと見つかりやすいようにカツラとか被っていたのだろうなと。
オウム真理教事件の大半に関与していた中川さんですが、その中川さんが新聞に容疑者として登場したのは5月12日。信徒の拉致監禁の容疑者としてでした。
扱いも小さかったはずです。
フライデーのオウム関係者関係を取り上げた雑誌にも登場していませんでした。
6月7日の段階では、取り調べにおいて、地下鉄サリン事件時のサリン詰めを認め、仮谷さん拉致事件の関与も認めていたとのこと。
さらに、『週刊現代』37(42) 1995年11月号には
取調官の言葉として、
「中川は取調の間よく泣きましたね。犯罪を犯したことを本当に悔いていた」
とか、オウム真理教についても
「あれは狂団ですね」
「なぜ気づかなかったのか、自分が情けない」
「私は死刑ですね」
などと答えていたと書かれています。
当時の私はそんな雑誌記事を多分立ち読みして、サリン事件も犯人が自白しているのだから裁判も早期に終結するだろうと思っていました。
それが、中川さんの裁判(一審)だけで、2003年までかかっていたとは・・・。
私は中川さんが死刑執行されてから初めて知りました。