何だったのでしょうか。
「神秘体験」が原因だと書かれて、オウム真理教に入信する人に多く共通するような
体験があることを記されて、病院を退職して出家したのだと簡単に書かれてしまうようです。
私は、そこがどうしても納得できていません。
神秘体験を否定はしません。
その背景にあったストレスがどんなのだったかと思いめぐらせています。
私自身も学校卒業後に苦しんだのは、仕事上のストレスだったからです。
結局私は、「適応障害」と診断されてその仕事から「逃げ」ました。
そのことで、今も何かにつけて履歴書を出すたびに「何で退職されたのですか」と
突っ込まれて傷ついています。
「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」の歌詞通り、
学校で学んだことを卒業後の世界で活かしてその分野で名をそこそこあげて、自分の存在意義を感じられるよう学業・仕事に励めた人ならば、気にならない部分だと思います。
研修医の途中で「突然の失踪」(「毎日新聞」1995年9月10日朝刊)で消えるように退職した中川さんは、私より以上に苦しかったのではないかと思います。
中川さんは医学部の6回生になるまでは、宗教に傾倒する要素はなかったようです。
高校時代に阿含宗に入信したことがあるとはいえ、大学生活が充実していて遊びに、ボランティアに、恋愛に、部活に精を出していて充実していたのだから。
その生活が一転、医師になることに向けてみると・・・。
医学部学生としては、成績が悪いため何回も追試を受けてようやく留年を回避して6回生まで進級した中川さんを待ち受けていたのは、医師国家試験の勉強や、最終学年として迎える実習を通して、「本当に自分には医師としてやっていけるのだろうか」という不安ではなかったでしょうか。
ここで医師の道を諦めたらどうなるのか?
大学名:「京都府立医科大学」という医学部だけの単科大学では、他大に編入するには
困難だったと思います。医学部に不向きであれば、総合大学ならば他学部に転部する道もあっただろうに・・・。
中川さんは、「自分には医師向いてないかも」と思ったとしても、それを「初志貫徹」と心に押し込めて頑張って勉強をしていました。どうしても疲れ切って、なんとなく足が向いてしまった先が、オウム真理教だったのでした。
このあたりは、藤田庄市氏『宗教事件の内側ー精神を呪縛される人々』2008
に詳しいです。
特に神秘体験については詳細です。
ただこの本を読んで不足を感じたのは、当時の中川さんが抱えていただろう精神的ストレスと、酷使される研修医として壊れた可能性が記されていないことです。
医師国家試験に合格した直後に、中川さんは幼馴染の友人に「空中浮揚」を見せています。泣きながら異常な体験を語っている姿を見たその友人は、「毀れてしまったのではないか」と思い、「いいからやめてくれ」と中川さんの肩を押さえつけるほどだったとは書いてはあります。
このように毀れた状態のまま、中川さんは研修医として大阪鉄道病院に赴任します。
この大阪鉄道病院勤務時代については、1996年10月15日林郁夫第六回公判の弁護側証人として呼ばれた時に語っています。
このあたりの部分は佐木隆三『慟哭 小説・林郁夫裁判』講談社文庫 初版は2004年に
詳しいです。
大阪鉄道病院での「専門は消化器内科だった。始めに勉強したのは、胃カメラ、超音波、大腸バリウム透視で入院患者は20人も30人も担当した。大病院では、若い医師が「戦力」だから。」
「患者を診ていると、患者と同じ状態になる。精神的にも肉体的にも、1989年5月、とうとう手術室で倒れ、その時の症状は、名医と言われる人でも診断がつかず、しばらく休職したあと、病院をやめてしまった」
と当時は自分の公判では黙秘をしていた中川さんですが、林郁夫裁判の証人として出廷し、自分の研修医時代のことを語っています。
消化器内科については、Twitter上で中川智正さんの後輩の方が次のように教えてくれました。
>それだけ研修医時代が過酷だった・・・
— Secreto Secreta (@SecretaSecreto) June 13, 2020
この優しい言葉を、地獄で苦しんでいる中川さんの許に届けてやりたいです。
彼の学力と医学知識では、厳しかっただろうなと推察するばかりです。
ちなみに大阪鉄道病院での専攻科は、基本的に消化器内科だと思います。もっと言うと、今時で言う総合内科。
俺の頭のパターンからの意見ですが、医学部の勉強って、地図を覚えるように大量の知識を覚えられる記憶力の人と、それがやや苦手で、縦横の関連性の中に一つ一つの医学知識をマッピングする人がいます。
— Secreto Secreta (@SecretaSecreto) June 13, 2020
中川さんの頭脳も、俺と似た後者のタイプに見えました。ただし知識に隙間が非常に多かったです。
「週刊文春」1995年8月17、24号には、
研修医時代の中川智正について
病院関係者には印象が薄いようだ、と書かれた後で
「中川先生には他に三人の同級生と一緒に来られたのですが、一番目立たない存在でした
。一人の患者さんと、一時間以上も話し込んでいることもあって、
患者さんからの評判はよかったんですけど、そんなに時間をかけていいのかなという感じもあったし、他のドクターに比べてもの足りない印象でした。」
と書かれています。
確かに、入院患者をいきなり20人から30人担当することになっているにも関わらず、特定の患者さんと一時間以上も話し込むとは・・・。時間がいくらあってもたりなかったのではと、当時の中川さんを心配してしまいます。
医学生時代に優秀でもなかった中川さんは、せめて患者さんとともにありたいからと
側にいる患者さん一人ひとりに寄り添おうとしていたのでした。自分の大切な勉強時間も削って。
それが、上司には「集中力を欠いている。仕事も勉強もダメな研修医が来た」と評価されても仕方がない状態だったと思います。
そんな中であがいていたのですが、残されている言葉が、研修医生活の現実的なものではなく、神秘体験の話になってしまっているのが、残念でなりません。
その背景にある、研修医生活の激務こそ語ってほしかったし、語ってもらえれば、これから医師としてやっていこうとしている人たちに役に立ったのではないかと思っています。先ほどの中川さんの後輩である @SecretaSecreto 氏のTweetを引用。
中川さん卒後10年にして、お隣の関西医大で研修医過労死事件が起こりました。関西における研修医への酷使は異常なんです。
— Secreto Secreta (@SecretaSecreto) July 28, 2020
三重大ではもっと大きな事件が起きました。
中川さんは、こういう異常な研修制度の犠牲者だと考えています。また高校の先輩も一人、過労から命を落としました。
ですから俺は
ですから俺は、怒りと悲しみを込めて、
— Secreto Secreta (@SecretaSecreto) July 28, 2020
こういう労働規律の腐った病院をぶっ倒す言論活動を、この研修医過労死事件の後から始めました。
嫌なら辞めろ委員会って言います。特に規約とかあったりしない、上念司さんの言う個別の一万人的組織です。
中川さん、なぜあなたは、研修医生活の激務を神秘体験でしか語ってくれなかったのですか?精神的に無理だったのでしょうか?死刑になるまでにそのあたりも整理して言語化していただくことは難しかったのでしょうか・・・。
一方で、中川智正さんが逮捕された直後の新聞記事
「産経新聞」1995年6月7日 東京夕刊より
「中川容疑者、なぜ凶悪犯罪に手を染めた/才能を惜しむ元同僚ら」には
「本当に医者らしい医者だったが・・・」かつての上司は、こういって青年医師の才能を惜しむ。地下鉄サリン事件で七日午後にも起訴されるオウム真理教「法皇内庁長官」の中川智正容疑者(32)・・・(中略)・・・
教団代表の麻原彰晃容疑者(40)との出会いで人生を踏み外し、凶悪犯罪に手を染めたが、単なる「ボタンの掛け違い」なのか、知性で隠し続けた素顔なのだろうか
医者らしい医者って何なのでしょうか。
中川さんは研修医を1年半で脱落し、オウム真理教が怪しいことも分かった上で出家するほど絶望に追い詰められていたのです。それをこんな言い方で、「医者らしい医者だったが」で惜しむポーズをとるのが、医者の中の世界なのですか?
中川さんは凶悪犯罪を犯して逮捕されたから大きく取り上げられたけど、
研修医時代に仕事についていけなくて医師を静かに辞めて行った人たち、過労死した人たちの問題に関しても「終わったこと」としてスルーし続ける医師の世界の実態に
悲しみを覚えました。
「ボタンの掛け違い」でも「知性で隠し続けた素顔」でもない
研修医の激務により、自分を失ってしまった中川さんには、麻原彰晃という人に世話になるしかないという選択しかなかったのです。絶望から出家したのです。
確かにオウム真理教でも医師を必要としていたので、神秘体験を持つ医学部卒の中川さんは教団としても欲しかったのでしょう。
研修医時代のことを、神秘体験でしか語れていないまま死刑になってしまった中川さんの存在を、せめて逮捕当時でも取り上げて、労働環境や研修内容の見直しのきっかけにでもしてくれていたら、関西方面の大病院の過酷な労働環境も少しは改善に向かったのかもしれないことが、改めて悔やまれます。