僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「被害者の親」から「加害者の親」へー支える覚悟、固めた母

中川智正さんの話をする上で避けて通れないのは、

お母様の存在です。

お母様については当時から新聞記者の取材にも応じられていて、息子があれだけの事件に関与したのに、逃げも隠れもしないで偉い方だと感じていました。

もし私が中川さんぐらいの犯罪を犯したならば、私の親は多分受け止めきれないだろうな・・・と思いながら、中川さんのお母様に関する記事を読んでいました。

お母様が留置場に中川さんに会いに行ったのは、逮捕後の5日目、5月22日のことでした。その時の新聞記事が、『毎日新聞』1995年10月24日夕刊にあります。

「どんな顔をして会おう。何を話せばいいの」と戸惑いながらーーー。

接見室のドアが開き、息子も困ったように入ってきた。
瞬間目が合い、涙があふれた。
息子も涙がほおからあごを伝い、ぽたぽたと落ちた。
互いに言葉は出ない。
「この子はまだ大丈夫。私の顔を見て泣けるんだ」
と母は思った。
息子はよほど照れくさかったのか
「タオル、タオル」と立会いの警官に声を掛けた。
一息ついて話しだした。
遠いところをありがとう。
僕がこうなったことを
世間では『親の育て方が悪い』というかもしれないけれど
これは全部、僕のせいなんだ

母が、弁護士を頼むつもりだ、というと
「僕は出家して、いったん親子の縁を切った。
都合のいいときだけ甘えることはできない」と断った。
「一緒の家族なんだから。そんなこと言わなくてもいいんだよ」
母は優しく言った。
親子の縁は簡単に切れるもんじゃない。
オウムに切られてたまるか・・・。
そう思い詰めていたと、母は振り返る。
「そこまで言ってくれるのですか。ありがとう」
息子も応じた。
息子の口から「脱会する」という言葉が出た。
分厚い強化ガラスに遮られていても、
息子は「母の情」に閉ざされた心を開き始めたのか。
「やっと家族に戻れた」と、母は実感した。
取り調べの捜査員からも
「お母さんにあってから(中川被告は)顔つきが穏やかになった」
と聞いた。
だが、面会を重ねる中で母は息子の
「妙に冷静な態度」
が気になっている。
麻原被告への怒りや憎しみは口にしない。
「麻原ってひどいヤツよね」と水を向けても
息子は反論も同意もしない。聞き流しているようにも見える。
「まだ麻原のマインドコントロールが解けていないのでは」
息子から麻原被告を非難する言葉を聞くまで
母は決して気が休まらない。
「多くの人の命を奪った。
麻原の洗脳を脱して、そのことを本当に恐れおののいてほしい。
心から謝罪して・・・」
小柄な母は、小さな肩を震わせる。
次第に声は細った。
逮捕後、医師免許を返上し、卒業した学校の名簿からも名前の削除を求めた中川被告。
早い段階から一連の事件の核心を供述したとされ
周辺にも極刑を覚悟していると漏らしている。
そうした突き詰めた気持ちが母との面会でも冷静さを保たせていたのだろうか。
でも私は思う。中川被告は悔いるなら、自ら関わった罪に正面から向き合い
苦しみぬいてほしい。犯した罪におののく姿を、さらけだしてほしい。
少なくとも母はそれを支えていく覚悟をしているのだから。
(社会部・東海林智)

中川さんのお母様を語る上で大切なことは、息子がオウム真理教に出家したのを放置せずに、当時はインターネットもない中で、永岡弘行氏や坂本堤弁護士などで結成された

オウム真理教被害者の会」を見つけて参加していた方だということです。

「被害者親」の立場でオウム真理教がどんな宗教なのか勉強されていたので、「マインド・コントロール」という言葉を知っているし、他の家族の話から、多額のお布施を取られたという話を聞いて、中川さん自身は多額のお布施はしていないことから、

息子の医学知識や柔道が悪用されるのではないか」といち早く恐れていた方です。

被害者の会の親の中で、特に中川さんご両親など、子供が医師免許を持ってオウム真理教に出家してしまった親たちは、子供の医師免許剥奪まで求める活動をしたけれど、まったく相手にされなかったのでした。

(「朝日新聞」2000年2月4日)

おそらく親ならば、子供が勉強頑張った結果医学部に入り、医者となったならば、その子を誇りに思うだろう。中川さんの両親より以上に、無茶ぶりで勉強させてまで医学部にいれようとする親は現在でも多いと思います。

医学部専門の予備校が繁盛していることからも。

それぐらい、医者になるということは本人も努力するけれど、親も努力する部分もあるだろうものらしいです。精神的にも、金銭的にも。

その医師資格をはく奪してもいいとまで陳情する被害者の会の親たちを、当時の東京都や警察は「話は聞くが受け止めない」という姿勢だったようです。そうして、6年後被害者の会の方々の願いもむなしく、一番最悪な形で、医学知識、柔道すべてが悪用されたのが、中川さんだったのでした。

中川さんのお母様としては、最初は息子がオウム真理教に出家したことを隠しておきたかったのだと思います。しかし息子がいきなり真理党の一員として国政選挙に出るわで隠し通せなくなり、被害者親から加害者親という立場になって、何度も死にたい気持ちになられたことだと思いますが、オウム真理教の怖さと息子のような人物が増えて欲しくない一心で、「加害者親」としても報道に対応されました。

誰にもできることではないと思います。

加害者親として、お母様は冷静だったと思います。

中川さんの「妙に冷静な態度」を見抜いていたのだから。

毎日新聞」1995年9月10日には

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中川さんが出家する前にお母様とステーキを食べたことから書かれている記事がありました。中川さんが出家してすぐに、被害者の親が他にもいることを突き止めて、そこと繋がり、坂本弁護士失踪事件の時には署名活動までしていたお母様。中々ここまでの行動力を発揮できるものではないと思います。 

なお、最後に端本悟さんとお母様の話もあります。端本さんのご両親もまた被害者の会に加わり、息子を奪回させようと頑張ったのですが、「逮捕されて嬉しかった」というほどだったのが、悲しいです。

端本悟さんもまた、坂本弁護士事件と松本サリン事件に関与したため、オウム真理教内での位は下だったのに、死刑囚になってしまったのだから。

ただ、端本悟さんの方がまだ救いがあったのではないかと思ったのは、「端本被告は、教団と無関係の弁護士を選び、教団との接点はほとんどなくなった」とあるように、端本さん自身は教団内でも戒律を破ったりするタイプだったからです。

端本さんや、その周辺の信徒は出家信徒とはいえ、教祖の近くにいる中川さんに対しては「教祖に迎合する」「ボンボン」とあまり良い目で見ていないことも注目点だと思います。

中川さんのお母様が設立当初から入会していた「オウム真理教被害者の会」は、

中川さんのように、加害者として公判を受ける者も会員の子供の間で出てきたことから

実情にそぐわないということで、「オウム真理教家族の会」として、今も存在しています。

なお、加害者家族の苦悩を知る一冊がこちらです。

 

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

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  • 作者:鈴木 伸元
  • 発売日: 2010/11/27
  • メディア: 新書