この言葉は1996年5月21日の中川智正第五回公判にて、
中川さん自身が「事件全体について、二点述べたい」と珍しく意見陳述をしたなかの
言葉です。
調書では「テロ」という言葉が出てくるが、その意識は仲間うちにはなかった。
逮捕されてから分かったことだが、事件を起こした当時、自分たちは公安警察の監視を受けていたことだったと話した後
「悪いのは私、すべての責任は私たちにある。ですが、どうして捕まえてくれなかったのでしょう。都庁の職員の方の指が飛ばされる前に」
仲間の名前を挙げて、皆が指名手配され、所在確認もされていた現状を話すうちに
中川さんは興奮して泣き出してしまったのでした。
オウム真理教関係について勉強するにつれて思うことは、
オウム真理教関係事件は未然に公安の情報調査と実行がなされていれば、食い止められた部分が多々あるのではないか、ということです。
私は当時、視聴者としてテレビ番組を見ていただけなのですが、
今回、地下鉄サリン事件以降のオウム幹部の動きを追う作業をして、地下鉄サリン事件の実行犯でもあった井上嘉浩や林泰男、中川智正、豊田亨も皆いつしか警察の監視を受けていることにも気づきながら、林、中川は電車に乗ったりして移動もしています。
以下の年表は、降幡賢一『オウム法廷』2下の、井上嘉浩被告、東京都庁小包爆破事件、新宿青酸ガス事件の検察側冒頭陳述要旨などより作成しました。
私たちがテレビで見ていたこのシーンなどは、「トカゲのしっぽ切り」だったのですね。上祐氏は「あほな事やってます」と慣れた感じであったけれど、
人前で話すことが苦手な村井秀夫までがなぜテレビにでるのか?
麻原の指示でそうなったということが、早川紀代秀さんの証言でうっすらわかります。
この証言は、この本に書かれていました。
早川紀代秀さんは「恐ろしくて本当のことを確認できなかった」けれど、
村井秀夫に責任を負わせる感じは当時からあったとのことです。
村井秀夫は自らテレビに出つつも、捜査攪乱を実行信徒(井上嘉浩、中川智正、豊田亨ら)に指示もしており、上九一色村から都内まで移動してもいます。
村井秀夫は、地下鉄サリン事件実行者から見ると、逆らえない権力者に見えますが、
教団内では地下鉄サリン事件以降、麻原の信を失い、責任を取らされる立場となります。
今回ブログ書いていて、恐ろしかったのは、
新宿駅青酸ガス事件の時、すべて失敗に終わりながらも、実行犯は電車を使用して新宿駅にやってきていて、装置を設置していたということです。
実行犯は、いずれも他のオウム真理教事件の実行犯でもあったのですが、その人物を世間では、追い切れてなかったのです。
テレビのオウム真理教組織には出ていなかった人物ばかりであったのです。
それが、麻原や村井の指示によりテロを起こそうとしていたこと。
それをテロとは思わず行動していたこと。
あくまで麻原の逮捕を防ぐのと、警察の捜査をかく乱するために、却って事件を起こし、都庁小包爆破事件では重傷者を出してしまったのです。
都庁小包爆破事件の時は、林郁夫が自白したため、中川智正の名前が新聞紙上でも見られるようになったころです。(朝日新聞での初見は5月12日でした)。
中川智正さんは、だから
「自分たちの移動やアジトへの出入り、どんな服装かも警察は正確に理解していたことが取調のときに分かった。それなら私たちだって爆弾作ったりしなくて済んだし、なによりも都庁の職員の方を重症負わせてしまう前に、なぜ逮捕してくれなかったのですか?」と言ったのです。
犯罪者から公安に対し、こんな言葉が出るとは
平成の初期から、実は国民の安全を守るべき警察や公安が適切に機能していないことを
示すものだと思います。
これは家族の会会長・永岡弘行氏視点から見たオウム真理教の番組ですが、
本を読むのが出来ないならば観て欲しい動画です。
オウム真理教が危ない宗教だと都庁や、警察に坂本弁護士事件の前後から伝え続けても、動かない。何か事件が起こるまでは、誰かが実際に傷つくまでは。
これが恐ろしい事だと思いました。