僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

「以前と変わらず尊師に従っているのは、土谷と新実と、自分の三人だけですね」

エントリーのタイトルにも使った、この中川さんの言葉

「以前と変わらず尊師に従っているのは、土谷と新実と、自分の三人だけですね」

はいつの頃の言葉でしょうか。

1996年1月23日の第三回公判、松本サリン事件の審理に入る頃に、「周囲に漏らした」言葉であると、降幡賢一『オウム法廷』グルのしもべたち下に書かれています。

 この日より、松本サリン事件の審理に入りました。

中川さんは、初公判時の地下鉄サリン事件同様、松本サリン事件についても、サリン発散の事実行為については認めたものの、麻原らとの共謀は否認しています。

 この日には被害者名簿が朗読されましたが、それをほとんど無表情で聞いたとのことでした。

なお、土谷とは、土谷正実さん(サリン、VXなどの生成方法を確立した)のこと

新実とは、新実智光さん(自治省大臣でオウム真理教古参信徒)のこと。

二人とも当時は黙秘をしていました。

その二人と自分だけが、まだ尊師に従っている

と、言っていたのです。

 

 

気になることは二点。

①当時中川さんはオウム真理教を脱会したのではないか?

②「周囲に漏らす」とのことですが、周囲とは一体だれなのでしょう。

 

①について

確かに中川さんは逮捕後にオウム真理教を脱会しています。

中川さんよりも前に逮捕されていた早川紀代秀さんがオウム真理教を脱会したニュースが中川さんのところにも入ってきて、それが中川さん自身の脱会の契機にもなったとは、麻原第193回公判(2001年4月20日)で証言しています。

 

検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉
 

 中川さん自身が脱会すると言ったのは、現世で自身が逮捕されて、オウム真理教の教義(オウム真理教では虫一匹でも殺さない)を破っていたことが明らかになり、教団に迷惑をかけたからということです。麻原の態度に幻滅したなどということはありません。

早川紀代秀さんが教祖の逮捕後の様子を聞いて幻滅して脱会したとは違います。

ただ、当時中川さんが脱会したという事実だけは、現世の、特にご両親や岡山の友人などを一時だけ安心させた部分もあったろうし、その部分がお母様発のマスコミ記事に反映されたために、当時の中川さんがなぜ脱会したのかまでは現在も不明です。

しかしながら、1996年1月段階で、書類上は脱会していながら、

以前と変わらず尊師に従っている」と考えていたことは重要だと思います。

 

ブログ名を「僕は二つの世界に住んでいる」としたことから考えると、

中川さんは、早川さんも尊師も、皆逮捕されてしまった(中川さんの逮捕は麻原逮捕の翌日)。共犯者の早川さんが脱会している。自分は教団に対して、実は殺害をしてしまったので迷惑を掛けた。だから反省の意味で脱会を決意したのではないか。ここはあくまでオウムではなく、現世的な部分で判断したのかと思います。

 

②について、中川さんが周囲に漏らしていると書いてある、周囲とは誰でしょうか。

考えられるのは、中川さんの公判を傍聴に来ていたオウム真理教の信徒たち(既に脱会している者もいるかもしれない)でしょう。降幡賢一さんのインタビューに答えたものが記事になったと考えるのが普通ではないでしょうか。

中川さん自身の接見禁止期間は、控訴審終了間際の2006年末ぐらいまで続いたとのことですが、(『ジャム・セッション』第3号 2013年6月)

 禁止期間であっても、この期間の早いうちに家族と古い友人数名との面会や手紙・物品のやり取りができたとのことでしたので、その「古い友人数名」のどなたか、ということになろうかと思います。

江川紹子さんは、こちらの書籍の中で初公判時の中川さんの姿を描写しています。

 

「オウム真理教」裁判傍聴記 1 (文春e-book)
 

 「彼は、その後も休廷など傍聴人の出入りのたびに、なぜか傍聴席に視線を走らせていた。中川は幼なじみで中学の同級生だったAさんの姿を探していたのだ。Aさんは中川裁判の傍聴のため、わざわざ岡山から上京してきた。」

と書いてあるのを見て、当時の私なら、中川さんと中学までの同級生の絆に心打たれたかもしれません。

 しかし、中川さんがこの時探していたのは、オウム真理教信徒の友人だったのではないでしょうか。

このように、オウム真理教は脱会しても、友人関係などまでは断ち切ることはできないようです。これはどの信徒被告にも言えることです。

そのあたり、脱会支援しているカウンセラーさんたちはどう判断をしているのでしょうか。難しいところでもあると思います。

中川さん個人として、その後の裁判で教団や教祖との関係をどのように語っていくのかを着目していきたいと思います。

この中川さん第三回公判の前に、井上嘉浩さんがオウム真理教脱会宣言をしたことを。

出典は、降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち下』

 

 

私、井上嘉浩は、1995年12月26日付でオウム真理教から脱会致しました。

(中略)

私とかかわりがあった信者、サマナへ、私の言うことを聞いてほしい。

今、みんなを取り巻く現状、これこそが尊師こと松本智津夫氏の教えが審理と似て異なる教えであったことの表れであると気付くべきです。

(中略)

私たちが覚醒を得ようとするなら、「最終解脱者」なんていらない。「救済者」なんていらない。「尊師」も「正大師」も「正悟師」も「サマナ」もそんな階級なんていらない。

「教団」なんて何一つとして必要ない。

(中略)

一体どれだけの人がポアという名のもとに殺され、その家族の人々が苦しんでしまったか。

一体どれだけの弟子が幻覚剤のイニシエーションで死んでいき、どれだけの弟子がポアという名のもとに殺されてしまったか。

一体どれだけの弟子が大きな犯罪を犯し、苦しんでいるか。

それでもみんなはオウム真理教の実態を見ようとせず自分たちに都合のいい部分だけを見ようとし、「尊師は絶対である」と信じていまだにすがってしまっている・・・。

(中略)

勇気と自信を持って自分で考え、なすべき償いをしたうえで覚醒を目指す修行を今度は間違えることなく実施してください。

私は今も覚えています。井上嘉浩さんほどの、高校時代から教祖に従っていた人が、こんなにきっぱりと訣別するなんてすごい勇気だなという気持ちで記事を読んでいました。ただ、深く読んだわけではなかったから、そう思ったのでした。

今、改めて読んでみると、当時の私の読み方が浅かったと反省します。

この言葉を発するのはそれで意義はあったと思います。

しかしながら、井上嘉浩さん自身も、あとで裁判で他の被告の証言と齟齬を起こしたりなど、新たな苦しみと直面しなければならなくなってしまった・・・。

言うことは易いけれど、その通りの振る舞いをし続けるのは難しいです・・・。

今、井上さんの脱会の文章を読んでみると、「井上さんの独りよがり」がよく表れていると思います。言葉はかっこいい。これなら確かに井上さんに惹かれて出家まで行ってしまった人も多かったのは頷けます。

ゴキブリ一匹さえも殺すわけないオウム真理教を信じ続けていた信徒、幻覚剤やイニシエーションの世話にならないまま、ある日強制捜査に巻き込まれた信徒からしたら、一体何なんだろう?という疑問がわいてきます。

このようにオウム裁判を辿っていくと、被告となった信徒の人間的弱さを知ることができます。そして、そこから自分に照らし合わせたりして、「人間」を考え続けることは意義あることと思います。

 今回紹介したのは、井上嘉浩さんの脱会宣言でしたが、他の被告にもその人のひととなりなのか、色々と接することができます。これがいろいろ考えさせられるので、オウム裁判を知らない人たちにも、知って自分なりに本を辿ってきるきっかけにもなればいいな・・・という気持ちを持って、私は墓碑銘として自分が読んだオウム裁判、特に中川智正さんのことを書いていきます。