前回のエントリーでは、中川さんの初公判について書きました。
初公判の時点でオウム真理教がサリン製造をしたことは明らかになったし、
その他、中川さん自身も事件の詳細について供述をしているという報道もありました。
にも、かかわらず、中川さんの裁判は、一審だけでも8年かかりました。
私は、このことに改めて気づいたのは、中川さんが死刑執行されてからです。
2014年ぐらいに中川さんが確定死刑囚ながら裁判に出廷されたことがありました。
冒頭に中川さんが謝罪されたとのことです。
私は当時、中川さんは初公判以降、いつの間にか裁判が進んでいて、やはりオウム真理教の多数の事件に関与したために死刑囚になって、その間に謝罪の気持ちをもつようになったのだ、ところでこの人、いつマインド・コントロールから解放されたんだろう、ぐらいにしか考えておらず、オウム真理教関連報道を真剣に見ていませんでした。
では初公判でサリン製造を証言し、他のオウム真理教関係事件の供述もしていると言われていた中川さんの裁判が、一審判決までなぜ8年もかかったのでしょうか。
その前に、オウム真理教関係主要被告(死刑執行済)の一審判決までに要した期間を
まとめた表を作成したので見てください。
オウム真理教関係で死刑執行された被告たちの一審期間を期間の長い順に並べ替えてみました。少ない人でも3年、地下鉄サリン事件実行役の方は5年ぐらいでした。
彼らと比べて中川さんは3年も長いのはなぜなのでしょうか。
一つは、関与している事件数が多かったことです。
- 坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪)
- 薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪)
- 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
- 松本サリン事件(殺人罪、殺人未遂罪)
- 駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 会社員VX殺害事件(殺人罪)
- 被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(逮捕監禁致死罪、死体損壊罪)
- 地下鉄サリン事件(殺人罪、殺人未遂罪)
- 新宿駅青酸ガス事件(殺人未遂罪)
- 東京都庁小包爆弾事件(爆発物取締罰則違反、殺人未遂罪)
なお、初公判の時点ではまだVX殺害事件は明らかになっておらず、関係者は逮捕されていませんでした。当時はある日は裁判に、またある日は再逮捕と、世間の動きとは関係ないところで忙しかったに違いありません。
中川さんが逮捕やその後の再逮捕の度に、裁判所で勾留質問という手続きがあるために、浅草署から裁判所に連行されることが多かったのです。その際、浅草署からワゴン車一台で向かったところ、留置係の警官によると、「〇〇署が、(オウム真理教の)〇〇容疑者を連れて裁判所に行ったときには車二台だったのに、浅草署は中川を連れてワゴン車一台で行った」という噂が立ってしまったため、浅草署では人手をやりくりし、何とかワゴン車とパトカーを出して中川さんを裁判所まで連れていったとのことです。
ちなみに中川さんがVX襲撃事件で逮捕されたのは、1995年12月1日のことでした。
(「読売新聞」)
中川さんの裁判が他のオウム真理教関係被告(死刑判決を受けて執行された者)に比べて長引いた理由として挙げられる理由のもう一つは、1998年に弁護人の交代があったことです。
中川さんの弁護人は、最初は中川さんのご両親が地元岡山の弁護士を雇ってつけたのでした。
初公判時でも
「一〇四号法廷の弁護人席にはポツンと一人の弁護士が座るだけ。六日前に同じ法廷で行われたA(オウム真理教弁護士)の初公判で、18人もの弁護士がひしめき合うように座っていたのとは対照的だ。」と江川紹子さんが書かれているように
オウム真理教の重要事件に関与している被告の公判としては、弁護人が所在なげに座っている姿が伺えます。
オウム真理教の重要事件の被告の弁護人は、教祖の逮捕前後より、オウム真理教から弁護士会に対して依頼があり、教祖と井上さんに関しては担当する弁護士選びが難航したのでしたが、一審で井上さんを担当することとなった弁護士は、
「この時代、この場所にいて、やり手のいない困難な大事件を自分の手でやってみたい」という思いから最終的に引き受けたとのことで、同じく5名の弁護士で裁判活動をしたとのことです。
井上嘉浩さんでも5人で活動するほどだったのに、中川さんの場合は1998年まで岡山の弁護人1人で、最終的に11事件で起訴された被告を支えるのはどれほどのものだったでしょうか。
中川さんのご両親は、自分たちの身を切るように弁護人を雇ってでも、息子をオウム真理教から取り戻そうと思ったのでしょう。
教団とはうちの息子は脱会したのだし、関係はない、ということをどうしても示したかった。そして息子には何をしたのか、裁判で話してほしかった。
そこに、次から次へと息子が再逮捕されていき、ついには弁護人一人では事務処理的にも無理ということとなり、息子は何をしたかも裁判で話そうともせず、むしろ教団からも離れる様子もない、何を考えているか分からないというところで弁護士交代となったと思います。なによりも、中川さんの関与した事件が多すぎて訴訟費用が莫大だったのが大きかったようです。
新たに中川さんの裁判を担当する弁護士は3名だったとのことです。
井上さんの一審時代の5人ほどではないにしても、これまで一人の弁護人で裁判に対応していたときよりは、事務的にも活動しやすくなったのではないでしょうか。
1998年11月の裁判再開にあたって、中川さんの新たな弁護団は、これまでの「殺人ほう助の限度での責任に留まる」から無罪主張へと大きく裁判姿勢を変えました。
最後に、中川さん自身の裁判に対する向き合い方が変わったということを挙げたいと思います。
中川さんは取調官に供述はしていたけれど、2000年ぐらいまでの公判では黙秘、証言拒否をしていました。このあたりは私も中川さんが死刑執行されて調べ始めるまでは、私は知りませんでした。
中川さんは2000年ぐらいまでは黙秘、証言拒否で裁判期間を結果としてのばし、それ以降証言するようになってからは、これまでのオウム真理教事件では語られてこなかったことを証言するようになりました。サリンなど毒物の知識だけではなく、自分の神秘体験についても。これがあまりにも現世の人間には理解ができなさ過ぎることで、その上、教祖がますます語らなくなったため、中川さんが教祖に代わってオウム法廷において、教団諸事件の語り部として裁判での発言が重視されるようになりました。
関与した事件の多さ、弁護人の変更と裁判方針の変化、中川さん自身の裁判に向き合う姿勢の変化などが、なんと中川さんの一審判決まで8年もの長期間を要したものとなったのでした。