僕は二つの世界に住んでいる

現代社会と科学の空白に迷い込んだ人物を辿るブログ。故人の墓碑銘となれば幸いです。

中川智正(サリン製造役)から見た地下鉄サリン事件

本日、地下鉄サリン事件から27年です。


私はこういうブログを書いているため、何となく
献花に三年ほど行っておりましたが、
今年は、翌日早朝から仕事のため、いくのをやめました。


私は地下鉄サリン事件に遭遇せずに済んだけれど
その日被害に遭われて亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
サリン事件の後遺症に今も悩まされている多くの方々のことをも
思い出す一日となっていました。

 

本日二回目の投稿です。
サリンの製造役から見た地下鉄サリン事件とはどのようなものだったのかです。
中川智正さんは、地下鉄サリン事件で使われたサリンを製造しました。
これは3月18日未明に東京から上九一色村へ移動するリムジン車内で
遠藤誠一さんが麻原より「サリンつくれよ」の一言で
サリンを製造することとなってしまいました。

サリンの製造責任をめぐって裁判で泥沼の闘いが続くこととなりますが、
中川智正さんは弁護士の奮闘もあって、サリン製造しただけ、となっています。

そのような中川智正さんから見た地下鉄サリン事件に至るまでの経緯を
見てみたいと思います。

【参考文献】

 

中川智正本よりも詳細です)

中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」(『現代化学』2016年11月号)

 

 

オウム法廷11

 

 

1995年1月1日の読売新聞記事
「警察がサリン関連物質を教団施設周辺の土壌から検出した」と出た際、
麻原は中川智正さんらに教団のサリンを破壊するよう命じました。

第七サティアンサリンプラントの建設、試運転はただちに停止され、
中川智正さん、土谷正実さんと部下の信徒たちは、土谷棟でサリンやVXなど
破壊作業に入りました。皆サリン中毒や疲労のまま作業し、破壊できなかった
サリンの材料(メチルホスホン酸ジフロライド)とVX2本が残りました。
この破壊できなかったサリンの材料をもとにサリンを製造したのが、
地下鉄サリン事件時のサリンでした。

この頃の中川智正さんの状況ですが、
麻原と村井秀夫から「掉挙(じょうきょ)=心が浮ついている)」と指摘され
修行に入れられていました。

中川智正さんが竹刀で殴らているところを遠くから見た信徒

 

 

もいます。

 


サリン製造という「大役」を果しながら、中川智正さん自身は心が浮ついている
と評価され、ある時は竹刀で殴られていました。
私などから見れば、サリン製造役は教団にとって大役だし、大切にされていたのではないかと見ますが、むしろ中川智正さんは麻原から遠ざけられていました。


中川が不調になると、その不調が尊師に影響するから」と。

 

サリン破壊作業とともに、修行に入るという生活でした。

教団ではサリン破壊作業と並行して、

永岡弘行・オウム真理教被害者の会(現・家族の会)会長VX殺未遂事件も起こしています(1995/1/4)。
その翌日、村井秀夫から「土谷棟にはもうまずい薬品はないね」と念押しされ、
さらに村井と中川とでダブルチェックもしています。
その後、村井秀夫は、土谷棟から、VX2本と、メチルホスホン酸ジフロライド(サリンの材料)を発見ましたが、皆が体調不良で、設備も動いてないから壊すのを諦め、
村井秀夫の判断で、これら薬物を井上嘉浩に依頼して、上九一色村から持ち出させました。これらは、発泡スチロールの箱に入れられ中川から井上に渡されました。

 

井上は、それらを「今川アジト」に持ち帰って保管したとのことです。
中川は、一月中旬「今川アジト」を訪れたとき、井上から
「あれ、ここにあるから」と言われました。
今川アジトにジフロがあることを中川は村井に告げると、「他にも処分しなければならない薬品は沢山あるから、とりあえず今川アジトに保管でいい」と言われたとのことで
この時点でサリン製造の意思は教団にはなかったのです。

なお、一月中旬に幸福の科学総裁・大川隆法氏の車にオウムがVXを撒布したが、
これは今川アジトから持ち出されたものの一本でした。

3月18日未明に、東京から上九一色村に戻るリムジン車内において、
麻原、村井、遠藤、井上、柏原、芦川の六名で話し合いがされ、
井上がボツリヌス菌でいいのではといったら、麻原が「サリンじゃないと駄目だ」
といったので、サリンを製造することとなったようです。
中川さんは、オウム真理教幹部であっても、リムジン謀議のような重要な会議に
出席もさせてもらえない立場でありました。
どんな話し合いがされたのかは最期まで解らずじまいのようでした。

この日の夕方、第六サティアンの二階にいた中川のところに村井がきて、
今川アジトに保管していたジフロからサインを作る計画があると告げました。
ここで初めて中川さんはサリン製造計画を知ります。
中川さんは、「ジフロはもう上九一色村にはない」というと、村井がクーラーボックスを持ってきていて、開けて見ると、ジフロがあっただけでした。
村井は中川に、遠藤棟にジフロを持っていき、そこでサリンを作れと命令を受けました。
遠藤棟に行くと、遠藤さんは、「ジフロだけしかないのか?」といいました。
今までの製造法では教団のサリン製造は無理だと考えられていました。
遠藤らによると、ジエチルアニリンを使用してサリンを製造することと決まり、

 

地下鉄サリン事件時のサリン製造の方程式

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中川さんは、それでは教団がサリン製造したのが判明してしまうと疑問を述べたが、
それでもかまわないと言われたので、そのサリンは当面使用する予定がないものだと中川さんは考えていたようです。

3月19日正午、遠藤さんから「サリンを作るので、遠藤棟(CMI棟)に来てくれ」といわれ、そこでサリンを作る事となったが、
中川さんはここで村井から叱責をうけます。

ヘッドギアをつけていない!

 

夕方ごろサリンが完成しましたが、

ここでも村井秀夫から「尊師の調子が悪くなっている。帽子をいつも付けるように」と叱責を受けています。

常識で考えれば、ヘッドギアとサリン製造には因果関係はないですが、
当時の麻原、村井、中川の関係においては、サリン製造以上に、
中川がヘッドギアをつけずにサリン製造というワークをしたことで、麻原の体調が悪くなると考えられていたのでした

村井と別れたあと、中川は遠藤とともに、ビニール袋にサリンをつめます。
遠藤の指示を受けて、指紋がついてしまうことも気にせずに、つまり事件に使用されるとは思わずに、袋詰め作業を行ったのです。
中川は、自分が袋詰めしたサリンはどこかで保管されているだろうぐらいにしか
考えていなかったのでした。
サリンをどこかに持って行ったのは遠藤で、さらに、予防薬メスチノンをくれと
言われたので、中川はそのまま手持ちのメスチノンを遠藤に渡しました。

そうして3月20日中に中川さんは地下鉄サリン事件を知り、自分が製造したサリン
使われたことを理解しました。
特に村井から声がかからなかった中川は、土谷棟の様子を見たり、修行したり、
自室の片付けをしたりしていました。
翌日、警察車両が、何台も上九一色村に入ってくるようになって、その日の夕方
村井秀夫の指示により、中川は他の信徒とともに、上九一色村から逃走生活へと
入ることとなりました。

この話を初めて法廷でしたのは2000年2月28日のことでした。
それまでの中川さんは、井上嘉浩さんを守るために?ジフロは自分が所持していた
とウソをついていました。

サリン製造者だった中川さんらでさえ、サリン中毒にかかりすぎて麻痺していたのか、
地下鉄サリン事件があそこまで大きなものになるとか考えることが出来なかったのでした。
松本サリン事件のときのサリンの方が純度の高いサリンだったのもあるはずですが、
東京の地下鉄の空間で目をやられてしまうと、サリンの残留物から造ったサリンで、
死者14名 負傷者6000名の、世界史上に恥ずべき大事件となってしまいました。

今ではたまにテレビ番組などで、サリンの製造過程を土谷正実さんの行動を中心にみられるようになっているけれど、製造の時にヘッドギアをしないことで村井や麻原から怒られていた中川さんの姿から、

なぜ中川さんは、最期までオウム真理教の日常を少しずつでも外部発信しようとしたのか、その一端が少しわかってきます。
オウム真理教を、ただのまやかしのテロ集団としてしまった方が、理解しやすいのかもしれませんが、それだけでない、宗教的なものが少なくとも、中川智正本人の中にあったということを何とかして残そうとしたのだと思いました。

中川智正さんの裁判だけではなく、他の死刑囚になった信徒の裁判では現在の教団とのつながりが問われていましたが、皆「離れているように見えて、離れることが困難だった」ようです。それはそのままテロ事件として、殺人事件として受け止められれば、潔いのかもしれないけれど、そこまで強い人間はいなかったということではないでしょうか。

 

 

泣いてしまったのは、林(郁夫)さんがかわいそうだったから

このオウム法廷の中で、何度か公判に証人として出廷しあっている同じ医師免許を持つ者として一括りにされている感じもする中川智正さん、林郁夫さんですが

私個人は、林郁夫さんと中川智正さんは全然違うタイプだと考えています。

林郁夫さんは、まだ世間の考え方が出来る人。

中川智正さんは、世間に戻っていることは理解できているも、彼の身に起こる異常体験により一人で苦しんでいる状態だったのではないでしょうか。

 

林郁夫さんは、地下鉄サリン事件の実行犯であったことを自首し、
その後も自分の見た教団内部や共犯者について、積極的に公判で発言して
来ました。その姿は前回のエントリーで触れたように
「慟哭の法廷」と当時のマスコミが書いていました。

 

一方で中川智正さんも、逮捕直後の取調の様子では「あれは狂団ですね」
「私は死刑ですね」などと自分の犯した罪の重さを話しており、林郁夫さんと同じように積極的に証言したはずだ、と思い込んでいました。
(私の場合はブログでテーマにするまでは)
中川智正さんは、教団が事件で用いたサリンを製造したことや坂本事件での殺人行為
は認めたものの、詳細を語ることを拒んでいました。
その様子は、同じ共犯者として調書を読める立場である林郁夫さんにとっては
歯痒いものであったに違いありません。

林郁夫さんは、法廷で中川智正さんの印象について
尋ねられた時にこのように言っています。

「付属病院でも人に応じて、すごく分かりやすく、優しく話す。心のきいた人。
麻原の悪いところは分かっていても、そういうところを大事にしちゃう人
(外崎清隆被告第10回公判 林郁夫証人尋問 1997/3/21)

 


中川さんについては、
「麻原の悪いところは分かっている」と評しています。
信徒拉致事件の時に、中川さんが林さんに
麻原の指示について
「やれる可能性があるかどうかでなく、何でもすぐやらないとね。尊師は怖い人だから」
といっており、
その拉致事件の際、いっしょにいた井上嘉浩さんは、携帯電話を持ち、頻繁に
麻原から指示を受けていたことや、この拉致事件が麻原の思い通りに
いかなかったことを、中川さんらは「チャクラの汚れだ」と麻原から叱責をされた
のを聞かされ、林さんは自分には聞いたことがないような怖い叱られようがあると
感じたとのことでした。

私はチャクラの汚れというのがわからないので、そんなものかとしか思えない・・・。

それはともかく

林郁夫さんとすれば、もう麻原も逮捕されているし、皆も逮捕されているのだから
麻原のまやかしを法廷でいうことが一番の社会的反省でもあり義務でもあるのに
中川智正さんは、なぜそれをしないのだと歯痒く感じたに違いありません。

中川智正公判第21回(1997年10月30日)において出廷した林郁夫さんは

「私としては、やはりあなたから見ると私の言っていることは理屈のように
見えるかもしれないけれど、私から見れば中川さんのいうことも理屈だと思うんだよね。
中川さんの原点である坂本さんの事件(坂本弁護士一家殺害事件)が終わったときに、震えて、精神的におかしくなったその場面にしっかり立ち戻るべきだと思う
その前とか後とかは理屈に過ぎない。
あなたも申し訳ないという気持ちを表現しようとしているんだろうけど、
殺される時の坂本さん一家の気持ちとか、坂本さん家族がどう思っているか
縁につながる人がそれをどう思うだろうか、感ずるかということにも
もっともっと、もう一回、自分の気が狂うぐらいそこを突き詰めて考えて欲しいなと思う。

(中略)

例えばあなたも震えた時に麻原から抱きしめられたと言っているようだけど、
だれかに抱きしめてもらいたいような辛さがあるが、中川さんは自分自身が本来
持っているものから逃れようとしているのだと思う
私はあなたを責めているんじゃなくて、カルマというか、一番最初に気が狂いそうになった場面を考えたくないから、その方向に持って行っているんだと思う。
自分が自分の意に反した原点、殺したということ、その場面(相手の)声とか動作とか、しっかり思い出して向き合ってそこから行くべきだと思います。
麻原に関して、いまだにいろんな人を騙していることを怒っている
騙されたのは自分が間が抜けているわけだから、それを彼に押し付けるつもりはない。
私はまあ、犯罪者ではあるけれども。
中川さんも…(涙で言葉が途切れる)今でも大好きだし(眼鏡を証言台において
ハンカチで涙を拭う)
だから、私の法廷で証言してくれた時に、とても悲しく思ったのは、あれだけ、長い事いっしょにいたのに、何もお互いのことも分かっていなくて、本当は何もしゃべれない。
もっともっとお互いのことが分かってこんなことにならない場面もあったのではないかと悲しく思った。他の人もそうだが、そういう意味では憎らしいと言えば麻原が憎らしい。
オウムの…だってみんな本当にいい人なのに、麻原は自分一人の欲望のために、若い人たちの人生メチャメチャにして、なおかつそれを恥じないからそれを悔しいというか私は憎らしい。」

この林郁夫証言を聞いた中川さんも、ハンカチで目をぬぐったという

なぜ泣いてしまったのか・・・。
「読売新聞」1997年11月29日によると
関係者の談として、「あの時泣いてしまったのは、林さんがかわいそうだったから
と書いてあったのです。

この部分を知った時、何とも言えない、中川さんの闇を見た感じがしました。
その直前に藤田庄市氏の著書を読んで、

 

 


取調官から「何というか、中川は何かあるな」と言われたことがあったことなどを
思い浮かべながら、中川さんがなぜ証言できないのか、その一端を知ることが
出来たと思います。

この時より前、1996年12月17日の林郁夫第8回公判に出廷した中川さんが
林郁夫さんの弁護人から「林郁夫に対して言いたいことは」と言われた時に

「やはり林さんは、怒りを尊師に向けている。林さんは仏教をあきらめていないと
聞いた。そうであれば、その怒りの感情を静めて、なぜ自分自身がこうなったかを考えるエネルギーに役立ててもらいたい」と証言した時に、読売新聞の記者によると
声が震えていたとのことでした。

内容的には大きなものではないように、関係者でない私には思えます。
それなのに、なぜここで声が震えてしまうのかが、わからないのです。

なぜか中川さんは、他の被告の公判では証言を拒否しながら、
連続して林郁夫さんの裁判には出廷したようです。

中川智正さんが林郁夫さんの公判に出廷して、証言を拒否しながらも
宗教的なことを敢えて言おうとしていたところ、
その部分で震えていたのが見えたというところで、
ここも中川智正さんには他の人にはない「何か」があるのではないかと
思わせられるところです。

この時期、中川智正さんは麻原に「光が見える」とも証言しています(
(具体的な資料を探したが見当たらない。多分、1997年1月頃のオウム法廷あたり
の新聞記事ではないかと思います)。
中川智正さんとしては、逮捕されて引き戻された現世とまだ麻原に光が見えていた頃のオウムの世界をせわしなく行き来していたぐらい、自分を持て余してどうしたらよいのか分りかねていたのではないかと思います。

当時、麻原にマインド・コントロールされていたと申し出て、精神鑑定を希望する被告もある中で、中川智正さんはマインド・コントロールとは少し違う自分の状況を、どう示したらよいのかもがいていたのだろうと思うのです。

 

「慟哭の法廷」を見直す

林郁夫さんの裁判は、「慟哭の法廷」と言われていました。
実際、佐木隆三氏はそれをタイトルに著書を出しています。

 

 

かつての教祖の裁判に証人出廷し、「自分たちが殺してしまった人たちが、
自分が死んでいくことさえ分からなかったのではなかったか。無念だったろうな、
と思った」と言いながら嗚咽をこらえ切れず泣きながら、

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私たちは亡くなった人たちに慈愛を施したと思っていたが

実際には無限大の悲しみを広げてしまった麻原は完璧に間違いだと分かった


本来ならば、麻原が自分の責任で語らなければならないはずだ
などと糾弾するその姿に、当時私は麻原から離れて、麻原のまやかしに気づけた強さを
世間の一つの目として同情を持ってみていた記憶があります。

麻原は「まやかし」だったのです。
世間の目から見ると。

「知り得る限りの事実をありのままお話するのが、人間として当然の責務であち、自分の使命と思う」
とまで言って、1995年末の自身の初公判と、教祖の法廷、共犯者である井上嘉浩さんの法廷や
他の共犯者の法廷に積極的に出てきては泣きながら語る林郁夫さんの姿から
オウム真理教から離れられた人の一つの姿を見ることが出来た気になっていました。

 

当時の新聞記事によると

林被告に勇気づけられるようにして、続いて井上被告が、さらに広瀬健一豊田亨、杉本繁郎被告らが次々事件の詳細を証言するようになったのを新聞で読んで、

林郁夫さんの勇気はすごいとさえ思ってしまいました。

この頃の林郁夫さんは

「真実を明かして、麻原を追い詰めよう」と共犯者に語りかけることもありました。

1995年末からしばらくのオウム法廷は、林郁夫さんと、同じくオウム真理教からの脱会宣言をした井上嘉浩さんの「英雄的行動」で報道されていた感じがします。
それで何となく、マインド・コントロールという言葉を覚え、オウム信徒でも、逮捕されて麻原と離れると1年ぐらい時間はかかるが、教団のおかしさに気づけるまでになるものだとか勝手に考えていました。

今考えると甘かったです。

多分1996年当時、世間一般はそれぐらいでオウム真理教の事件について理解した気になってしまったと思います。
今から思うと、世間一般としてはカルト教団に対する考え方が単純で甘かったと思います。

果たして、マスコミのタイトルのように、

他の共犯者は林郁夫さんの呼びかけに答えたのでしょうか。
VX事件を自首したガルは、林郁夫さんの姿に勇気づけられたとのことです。
林郁夫さんに影響された人に共通するのは、おそらく、「言葉」からオウム真理教に入っていった人たち、かつ教団の運営に対しおかしいと思っていた人たちだったのではないかと思います。

「読売新聞」1996年12月18日朝刊には、林郁夫公判に出廷した中川智正さんが
私は論理ではない部分で尊師についていった。(林さんの)公判の陳述を聞いても裏切られたという感情はない
と言っています。
この言葉に注目したいと思います。

林郁夫さんは教団に対して毒ガス攻撃がされていることを信じていたのに、裏切られたと証言したけれど、
それももっともだとしています。
その辺が当時も、いや執行直後にブログのテーマにするようになってからも理解できていませんでした。

林郁夫さんの著書『オウムと私』を読むに、教団の運営方法がおかしくなってきたことなどは詳細に書かれていますが、林郁夫さん自身がヨガの修行で神秘体験を経験したことは書かれていませんでした。

 

 


林郁夫さんは阿含宗入信からの流れで、言葉からオウム真理教に入っていって、
ひたすら教団の構成員である以上教団のやり方に異を唱えてはいけないと自分を縛り付けてきた経緯を記していますが、中川智正さんや、広瀬健一さんらが経験された神秘体験をしたという記述がないのです。

林郁夫さんが法廷で慟哭し、教団を糾弾する姿を見せられても、中川さんは
裏切られたという感情はない」と言えたのは、

「自分と林郁夫さんとは考え方が違う」というものがあったということ。
ここに気づけていませんでした。

林郁夫さんに影響されて、共犯者が話すようになったのか?
例えばVX事件の実行者であったガルは、教団を数回脱会し、連れ戻されたり
近くでも薬物漬けにされておかしくなってしまった信徒を目の当たりにしていたのも
あって、林郁夫さんに影響されてVX事件の自首をしました。

自分の神秘体験よりも、現実のオウム真理教に幻滅している方が大きかった人は
なるほど、教団から抜けるのは早かったほうなのかもしれない。

例えば、ここで地下鉄サリン事件の実行犯(丸ノ内線)である広瀬健一さんは
どのような状態だったのでしょうか。

 

 


「逮捕された後、供述すると悪業になる内容について、私は取調官の追及を受けるようになりました。
しかし、それでも、はじめはまったく供述できない状態であり、追及の外力に身を引きちぎられるように感じました
そのような状況において、私は軽度の悪業となる内容から少しずつ供述せざるを得ませんでした。
私が最初に話したのは、地下鉄内で自身がサリンを発散させた単独行動の部分でした。事件に関してかなりのことがすでに明らかになっていた状況であり、

個人的な行為として供述するならそれほど悪業にはならないと思ったのです。

その後黙秘と供述を何度も繰り返して、長期間かけて動機のヴァジラヤーナの救済の教義のことや、麻原の事件への関与について供述できるようになりました」

 

とあるように、林郁夫さんの供述に影響されるというよりも、

地下鉄サリン事件のこの件はここまで明らかになっているがどうなんだと問われて、

ようやく答えるという感じが見受けられます。
広瀬健一さんの著書には、不思議なことに共犯者の林郁夫さんに関する記述がないのです。

なお、広瀬健一さんの法廷での名言は
サリン発散を引き受けたのは、教団が好きだったから

(井上嘉浩被告第7回公判 1996年7月16日)
です。
「多くの人を苦しめることになるというふうに自分が思うのは、自分の煩悩」と考え、さらには
「教団から逃げ出そうとしなかったのは、オウムが好きだったから、当時は解脱することが人生の絶対的目的であり
それに向かって修行することだと考えていた」とも言っています。
だから井上嘉浩さんが「ポアの恐怖」から犯行に加わったとしているが、広瀬さんからみた井上さんも
自分と同じように考えていたはずとも言っています。


世間は、林郁夫さんの法廷の様子をもって、麻原のまやかしに気づけたとするけれど、
実際は、広瀬健一さんのように、取調官からの追及で、少しずつ話すようになった人や
横山真人さんのように、取調官と人間関係が作れず話すことができないまま処刑されてしまった人もいたことを、継続的にみていくべきだったのではないかと思います。
今さら遅いですが。

ましてや中川智正さんと林郁夫さんは医学部卒業で医師免許持ちということで
一緒に捉えられがちではありますが、


林郁夫さんは「論理で」、中川智正さんは「神秘体験」で教団生活を送っていた違いがあります


やはり、教団の犯罪を見る時は、その犯罪者の供述からその人の個性や、どのように入信していったなど、なるべく背景をみるようにしないと表面しか見ないで終わってしまうのではないかと思います。

その背景を辿ることで、カルト教団に染まる人間の様々な事例を学ぶことができると

思います。それは生きた話なので、貴重だと思います。

よく、オウム死刑囚が執行されたあと、「麻原は(語らないから執行は)やむなくも、

他の信徒たちの姿はカルト教団の生き証人として生きて償ってほしかった」という声が

ありましたが、私もそれに同意するものであります。

次は、中川智正さんと林郁夫さんが互いの法廷に出廷してどのようにやり取りをしたのか、
そこから見えてくるものは何かを書いていきたいと思います。

 

 

オウム真理教の医療とイニシエーション

しばらく林郁夫先生関係のエントリーが続きます。
それは、林郁夫『オウムと私』という著書があるからです。

 

 


この本は、林郁夫さんが無期懲役囚として千葉刑務所で書かれた
書物です。

オウム真理教の医療行為と言えば、私個人の当時の報道から抱いたイメージとして

戒律破りの信徒に麻薬を注射しておかしくしたとか(その一部は死亡したが、
遺体は教団内で処分されているからどれぐらいの被害があったかわからない)

高額なお布施と引き換えに薬物イニシエーションを施したなどというものしか
ありません。

これは事件当時、テレビ番組で毎日どこかの局が、重々しい音楽とともに
放送していて、その内容がいかにオウム真理教の狂いっぷりを表現できているか
を競っていたのが一つの原因かと思います。

先日出所されて、著書を出版された富田隆氏(松本サリン事件実行犯)は
逮捕される直前まで日本テレビに協力していたのですが、
そこにはたくさんの憶測や妄想が毎日のように何物かによって流れ込んできていたとのことでした。

 

 

富田氏は端本悟さんの手引きで、当時愛していた女性とともに逃亡した人です。
富田氏がそのような経験を持つことも、教団に関する情報の取捨選択の手伝いを
していたこともこの書籍によって知りました。

例えば、麻原が女性信徒と性的関係を持っていた(事実)があると、
次々と「教団関係者」と称する詐話師が登場して、話に尾ひれをつけて、
最初に出た話よりもむごい内容として語り番組化されます。

そのようにして作られた二時間ぐらいの番組を
当時の私のような視聴者は怖いもの見たさで楽しんでいたのでした。

 

その中には本当の事もあれば、嘘ももあったのでした。

元信徒の中にも、中々癖のある人物がいたようです。

様々な背景を持ちながら救いを求めて入信・出家してきた信徒を
一つの方向に纏めるのは、麻原自身も実はかなり無理がきていたようです。


麻原が絶対である教団なのに?
基本的にはグルが第一であることは変わらない教団ではあるけれど、教団内での生活やワークから信徒の麻原彰晃への見方は1994年ぐらいから変わってもいったようです。

このあたり
ブログの記事にするにあたり、本を読んだりして新たに発見することばかりで
その取捨選択に時間がかかっています。

 

前置きが長くなりましたが、
今回のエントリーでは、林郁夫『オウムと私』より読み取れる
オウム真理教の医療がどんなものだったのか
そして、1994年以降に林郁夫さんに対してイニシエーションの指示を出したのは
誰であったかを見ていきます。

まず、オウム真理教の医療について

「AHI」(アストラル・ホスピタル・インスティテュート)と呼ばれていました。
場所は、中野区の野方駅近くです。
この病院については、以前こちらにも書きましたが
信用度は一般社会の人にはなかったけれど、
林郁夫さんによると信徒内では信頼度が絶大だったようです。

ここの病院のトップは中川智正さんですが、
彼は野方に来ることは少なく、富士山総本部で特別なワークをしていたらしいです。

たまに来たときには、林郁夫さんたち医師や看護師に、研究テーマを与えたりする
ぐらいでした。そのテーマが「サバイバル医療」。

林郁夫さんはそこまでピンとは来なかったように思えますが、
中川さんは教団武装化の動きをよく承知していたから、「尊師の指示のまま」
そのテーマをAHIに与えていたのでしょう。

AHIでは麻原の意向により、手術は

「ナーディ(エネルギーの通り道)」を傷つけるから良くないとされ、

麻原のマントラ修法した塩や、甘露水で湿布という常識がまかり通っており、

ある幼児はついに耳鼻科の手術を受けるまで悪化させてしまい、
外部の病院から「どんな治療をしているのか」と林郁夫さんが言われてしまったことも
あったとのことでした。
 かつては心臓外科医として高い評価を受けていた林郁夫先生のプライドが傷つけられましたが
それをも自分の修行だと思い込んでいたのでした。

オウム事件時に報道で騒がれてもいた「温熱療法」についても林郁夫さんは触れています。

林郁夫さんが地道に麻原に働きかけたことで、AHIにもICU並みの機器を備えることに
成功しました。
平成五年(1993)年以降は、転移性肺がんの内視鏡手術や子宮頸がん末期の手術にも
成功し、入院は西洋医学では手の施しようのない末期がんの患者が信徒以外でも
訪ねてくることがあったようです。
 彼らにたいして、浄化法、瞑想法、ヨーガや漢方薬、そして「温熱療法」を施して効果をあげていました。
温熱療法は、自分で体温を上昇させてエネルギーを循環させるヨーガの「トゥモ」という行法を利用し、薬もだめ、手術もだめな患者さんに、通信販売されているサウナスーツを使って始めたもので、のちにお風呂方式に切り替えるなど試行錯誤し、
林郁夫さんは、患者さんの新陳代謝が活発になっていったと手応えを感じたということです。

その成功に目を付けたのが麻原で、
麻原はこの温熱療法をイニシエーションとして信徒に伝授したし、
それこそ事件当時の報道のように「50度の温熱がんばるぞ」とテープにまで吹き込んでやらせるようになったのです。
治療ではなく、修行の一つにかわったため、出家信徒が皆各自の修行法として取り入れるようになってしまうことを林郁夫さんは医学の観点から危惧していました。

 

ではなぜ麻原は温熱療法の成功をイニシエーションとして伝授したがったのか。
それは教団の運営資金がいつも足りなかったからでした。
教団は武装化の準備の一方で、出家信徒を多数抱えていたから、
教団は経営面でも危機に直面していたのでした。
それでも武装化はやめられなかったのが、不幸なことでした。

平成六(1994)年以降、信徒統括のために、芦川順一(東大理三から医学部中退)と、
柏原由則(元弁護士)らによって、思考操作の基本的材料として
「決意Ⅰ~Ⅳ」などが作られていきます。

これは信徒を一括管理するためもありましたが、富田隆氏の著書にもあるように

オウムのワークは出来るものの、神秘体験ができない芦川の教団内でのステージを上げるためとも言われています。

 

林郁夫さんは、1993年末の池田大作サリン襲撃事件でサリン中毒にかかった
新實智光さんの治療にあたってから、教団のシークレットワークに関わらされるように
なります。

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中川さんが、医師であるにも関わらず、救急救命措置ができる技量がなかったために。

 

林郁夫さんは、オウム真理教に出家してから池田大作サリン襲撃事件までは
教団内の医師としても成果を上げていたことに気づかされました。

 

その医師の技量を見込まれてしまったことは不幸だと思います。

 

林郁夫さんはこういいたかったでしょう。

中川智正がきちんとした医療技術を持っていれば、自分は教団の犯罪に加担しなくてよかったのに」と。

その後、麻原を通して中川の指示でやらされたのが、拉致事件への関与でした。
それの最大なものが、公証役場事務長拉致監禁致死事件でした。

信徒の拉致から、信徒を匿ったものを拉致するようになるなど、教団外にも悪影響を及ぼすようになります。

 

そして、省庁制の成立後(平成6年6月)後、治療省のトップとなった林郁夫さんですが、
法皇官房の指示も受けた、LSD覚醒剤をつかったイニシエーションの医学管理もさせられるようになります。
麻原→法皇官房→治療省のルートで指示が降りてくるようになりました。。
オウムの中では、医者のキャリアよりも、「麻原に近いもの」が大切らしいです。

 

ただ、林郁夫さんは自身の逮捕後しばらくは、法皇官房の名称を知らなかったため、
本当は「バルドーの悟りのイニシエーション」(記憶チェック)やLSD覚醒剤をつかった
イニシエーションを含め治療省の主導と裁判でもされてしまったことを悔やんでいます。

これは悔やんでも悔やみきれないでしょうと思うし、
現在でも世間で誤解されている部分だとも思います。

法皇官房実質トップ・芦川順一は逮捕後ほどなく釈放されており、

裁判にかけられなかったし、
元弁護士も現在は刑期を終えて、ゆとりある生活を送っているようです。
彼らは薬物を使用して、人間の脳を変える行為をしたことをどう思っているのでしょうか。
何も今になっても聞こえてくることはありません。
裁判にならなかったから。
元弁護士は裁判にはなったものの、この薬物の件では立件されていません。

 

薬物事件は、事件の番組では取り上げられていたわりに、
結局裁判ではスピード化のもとに、「三大事件(坂本弁護士殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件)」以外
とされて取り下げられています。
それで、元医師であった林郁夫さんの主導であるかのイメージは、裁判も中途半端であったために
かなり中途半端に世間に残り続けているので、残念に思います。

オウム事件においては、裁判がもっと薬物にも焦点が当てられて、どのようなルートで
イニシエーションが行われ、信徒の管理をしようとしたかを明らかにしていれば
オウム真理教における洗脳の実態だって明らかになったと思うのです。
私は洗脳の実態については、この文章書くだけでも、どうしてもまとまらなくて
苦しみました。
それぐらい裁判が中途半端すぎて、本当は中心的立場の者が釈放されてしまったがためにオウム真理教は信徒を洗脳するから怖い、という一言だけで済まされてしまっているのが残念でなりません。
洗脳の部分をもっと様々な方面から明らかにすべきだったのではないでしょうか。

例えば、

 

との比較など。

よくオウムのマインド・コントロールはこの本を元に説明されることが多いですが、

私は今一つよく分からないです。

読もうとしていて積読状態です。

広瀬健一さんの著書がわかりにくい、とっつきにくいと言われるのも、この本とオウムでの洗脳過程を地道に比較していくのは結構大変なことで、

それを一般向けに分かりやすくすることは難しいからだと思います。

だからこそ、広瀬健一さんの書籍はいつでも販売していてほしいものです。日本のカルト宗教に関する貴重な研究成果として。

 

次は、林郁夫さんの裁判がどのようなものであったかをエントリーします。

「サリンを、撒きました。」

この言葉は、林郁夫さんが警察に自首した時の言葉です。

そして、この言葉はドラマでも使われました。

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個人的には、平田満さん演ずる林郁夫さんの自首シーンが印象的で、姿は似ていないけれど、演技で林郁夫を表現されたと感じました。

なぜそう思ったかというと、林郁夫さんは、地下鉄サリン事件の実行犯でもあるけれど、地下鉄サリン事件の実行犯になる以前にサリン中毒になった新實智光さんの治療に当たったこともあり、教団がサリンを製造していることを知っているのと、他の教団関係の事件にも関与しているからです。

だから、あっさりとした感じで

サリンを、撒きました。」というセリフが出たのではないかと思うのです。

動画はこちらです。

youtu.be

 

林郁夫さんの自首後、オウム真理教捜査が進み、教祖以下弟子の逮捕につながりました。

今回は、林郁夫さんが、なぜ自白するに至ったのか、林郁夫さんとはどのような経歴が

あるのかを書いていきたいと思います。

ここは中川智正さんの墓碑銘のはずですが、敢えて林郁夫さんについて触れることで、

オウム真理教所属の医師」として一括りにされがちな二人の違いを明らかにしたいのです。

医師免許を持っていたことだけは共通していますが、オウムに入信したきっかけや医者としての経歴はまったく違うのです。

 

林郁夫さんは、無期懲役として服役することとなりますが、

その時に、自分の手記を獄中で執筆しています。文庫になったのは、教祖が死刑判決を受けた2004年ではあるが(ドラマ等もその前後に放送されている)、単行本となったのは1998年。他の被告がまだ裁判中の時期でした。

 

 

 

林郁夫さんは、1947(昭和22)年、東京の開業医の家庭に生まれました。

ただし、戦後の混乱期でもあったので、現在の一般的な開業医の家庭とは異なり、幼い林郁夫少年は、月末月初になると保険請求の書類に押印するなど事務仕事を手伝うなどして、実家の医院経営を手伝い、医者という職業を身近に感じていました。

中学受験をして、慶應義塾中等部に合格。高等学校に進み、その高等学校から慶應義塾大学医学部に進学しました。

慶應義塾大学医学部には、附属高校で良い成績を取り続けないと進学は難しいので有名です。やはり、というのか、慶應義塾大学医学部の内部進学コース

www.tomonokai.net

も存在しています。

成績が学年の上位三パーセントに入り続けていないと難しいらしいです。

林郁夫さんは、普通に医学部に進学できたようです。

手記にも特別なエピソードはありません。

医学部卒業時に専攻を選ぶにあたり、人体全体に関わることができる人の役に立てるからと、手術手技という、ある状況下では、習得しているか否かが救命に決定的な要素となる技術を身につけることができるからと、外科を選ばれたとのことです。

研修医としては、大学病院で1年、出張病院で2年研修し、後半の3年間は大学病院に戻って外科の中でさらに分野を選び研修、研究を行うというもので、林郁夫さんは、

すべて充実した日々として過ごしてこられたようです。

外科の新人出張ではどこでも同じですが、借りていたアパートにはほとんど帰れないような生活でした。勉強会や治療にも厳しいチェックが入る毎日でしたが、充実していました」

このあたり、たった1年半で研修医をギブアップした中川智正さんと一番違う点です。

以前、Twitter中川智正さんの後輩の方とお話しましたが、

中川さんは医学知識、技術が劣っていたので、林郁夫さんのような方に教わる機会がありましたでしょう?と言われました。

そうだったんだろうな、とは思ったものですが、そうではなくて

林郁夫さんは、中川智正さんも同じ医師だと思っていたのに、池田大作サリン襲撃事件の際(1993年12月18日)、サリン中毒になった新實智光を連れて中野のオウム真理教附属病院に連れてきて、同じ医師免許を持ちながら中川さんは自ら救急救命処置もなにも出来ないことを知ります。それで林郁夫さんが点滴やら人工呼吸器やらの出来る限りの治療処置をしたのです。この時に、中川智正さんから初めて、教団でサリンを使用していることを知ります。

新實智光さんの治療時は、林郁夫さんはサリン中毒者の治療について、サリンがどのように作用するか、パム(PAM)や硫酸アトロピン注射がどのように効くのかわからないまま、治療をしました。

 それと同時に、林郁夫さん自身も教祖や中川智正さんを通して、教団の暗部を見たものとして各種事犯に関与させられるきっかけとしているようです。

 こんなところを踏まえて、平田満さん演ずる「林郁夫」が役作りされたのかなと思います。地下鉄サリン事件の約2年以上前から教団ではサリンを扱いはじめていたので、あっさり「サリンを、撒きました。」というセリフを言わせたところなど。

 

以降、林郁夫さんは

 

1994年1月半ば以降 老女拉致の手伝い(睡眠剤を飲ませて第六サティアンまで運ぶ)

1994年2月  Y君(信徒)拉致未遂

1994年2月末 宮崎資産家拉致計画(井上嘉浩さんに言われて)

1994年3月  麻原から保険の不正請求をしろ、国から布施させろと指示される

1994年4月  中川智正からポリグラフ(ウソ発見器)を引き継がされる

1994年5月  滝本太郎弁護士サリン殺害未遂事件時のサリン実験に関与させられる

1994年12月までに ナルコ(記憶けし)の指示を受ける

1994年10月末 ニューナルコ(電気ショック)の指示を受ける

1995年2月28日 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件

1995年3月20日 地下鉄サリン事件実行犯(千代田線)

 

教団の各種事犯に、医療技術を持っているものと教祖からみなされ関与させられたと

なります。

 

最後に、林郁夫さんはなぜオウム真理教に入信してしまったのでしょうか。

 

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これは2ちゃんねるの医師版にある「嫌なら辞めろ委員会」のスレッドです。

【幸福追求権】いやなら辞めろ【職業選択の自由】

 

外科の奴隷労働の末に、交通事故を起こして(轢き殺しはしていない)しまったのが

原因だと書かれています。

それ以前に阿含宗などで教えを求めていたこともありましたが、入信の引き金として

自分の過労をないがしろにしながら交通事故を起こして、判断力が低下してしまったらしいことが著書にも記されています。

医師の過労問題について取り組んでいる「嫌なら辞めろ委員会」が林郁夫の過労問題に

着目していたことはだと思います。

それだけ医師(特に勤務医)は過重労働になりがちであること、自分の仕事に自信をもっていた医者でも、過労によって判断力が落ちればオウム真理教のような団体に吸い寄せられる可能性もあるのではないかと当時から指摘していたのでした。

 

次のエントリーでは、林郁夫さんの著書から、オウム真理教の医療がどのように

変化していったかについて書いてみたいと思います。

 

 

 

オウム真理教附属医院と中川智正

先日、こちらの記事を見て、

中野区の図書館に行きたくなりました。

 

news.yahoo.co.jp

 

前日には中野中央図書館に赴いた。受付でオウム事件の関連書籍は200冊を超えていることがわかり、

 

そんなにたくさんあるのか!

実際中央図書館(最寄りは中野駅)に行ったところ、多くは閉架でしたし、

千葉県民の私はカードを作れませんでした。

(ちなみに私は千代田区などのカードは持っています)

 

その中でとりあえずと思ったのが

消えたブログでも取り上げたこちらの本です。

加藤孝雄『今だから書けるオウム真理教附属医院ー元中野北保健所職員の証言』

 

 

オウム真理教附属医院に対する世間的なイメージは、

教団の秩序に反する信徒を薬物で処置するなど、オウム真理教犯罪の温床だと思います。確かに、ここでそういう処置があったことは確からしいです。

最も私は、事件当時のテレビ番組で見た通り、建物はおよそ病院とは思えない狭いビルにある、何か暗い場所だというイメージを持っています。今でもそれは変わりません。

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ただ、こうした当時の証言を書籍にされた保健所の方の視点などから、

オウム真理教附属医院を見なおすことは大切だと思います。

 

著者は、中野北保健所の職員をされていた方です。

オウムが医院を開設してから廃院になるまでの手続き不備や、オウム事件がマスコミで報道され、厚生省(当時)のあいまいな指示に悩まされながら、その事務手続きをやり遂げられました。

 

まず医院開設は、1990(平成2)年6月1日。

そこにいきつくまで、オウム真理教の書類提出がずさん過ぎて苦労したそうです。

誰が代表者になるか。

これはオウム真理教について少し勉強したなら、麻原彰晃になるはずですが、

なぜか鍼灸師の信徒が代表者になったようです。教祖は嫌がったらしいです。

医師が自宅をクリニックにする手続きは簡単なのだそうです。それは

入院設備がない場合のみで、保健所に届け出すれば許可されます。

そして医師以外の者が医院をはじめるのも困難だし、営利目的かどうかも保健所は審査の対象にします。

代表者決定だけでオウム側がゴタゴタしていて、保健所側は「変な病院だ」と目をつけるようになりました。

その上、オウム側は入院用ベッドを置きたいといってきました。

そこでさらなる審査が発生し、通常のクリニック開業手続きより数か月もやりとりに時間がかかりました。

そうこうして、院長は「平田」ということに決まったようです。

保健所は厚生省の患者調査(利用者の傷病の実態調査し、地域ごとに統計をとる)の時にオウム真理教附属医院を対象医院にしたのですが、その時に院長「平田」としてでてきたのは誰だったか・・・。

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この人です。

どうみても「平田」さんではないですが・・・。

「平田さん」ではないと保健所職員がわかったのは、地下鉄サリン事件の捜査以降でした。このような写真をみて、初めて判明したそうです。

 

なりすましを平然とする。

社会人ならば、ここで名刺の一つでも渡すところが、ふつうになりすましで保健所職員と接触するところ。

保健所側は、オウムという集団を、

俗世間のことはどうでもよく、自分らの世界をつくり、その論理で生きていた」と見抜き、だからオウムに近づくと摩擦が生じる

考えたそうです。

 

このオウム真理教附属医院をマスコミが注目するようになってからは、

マスコミはオウム真理教附属医院の死者を調査しだしました。

20名の死者がでており、これは他のクリニックに比べて40倍の多さではあるけれど、

医療行為か犯罪かは今も判明していないとのことです。

オウム真理教附属医院で死亡したとして、必ず中野区に届をだすわけではないから。

 

これでまた中野北保健所はマスコミ対応に追われることとなります。

そんなある日、中川智正さんのお母様から中野北保健所に電話がありました。

お母様は弁護士から聞いたということで連絡をしてきたのですが、

「長男智正が犯罪を重ねて医師の名誉を傷つけたので医師免許を返上したい」との申し出でした。

 

何でも中川智正さんの本籍地が中野区にあったからです。

え?サティアンのあった上九一色村ではなくて?

オウムはそういうことは気にしない・・・。

中野北保健所では判断ができず、東京都の医務指導課に指示を仰いでも

「そんな前例はない」

とりあえず、本人署名・捺印ありの理由書と、医師免許の本証を郵送してもらうことと

なりました。

郵送してもらった理由書と医師免許は保健所の金庫に格納し、マスコミに漏れないよう最大限の努力を払いました。

こんどは厚生省は理由書と医師免許が本当に中川智正のものかを問題にしました。

それで21日放置したのです。

1995年7月25日、医道審議会に報告をあげて、それから厚生省→都の衛生局医療計画調査→中野北保健所と降りてきて、ようやく8月31日に医師免許返上(剥奪ではない)となりました。

 

その他オウム真理教附属医院に所属していた医師が9名中7名が逮捕されたということで

ようやく10月30日に廃止届を受け取り、中野北保健所はオウム真理教附属医院を廃院にできたというものです。

 

中野北保健所から見たオウムは、「単純」とのことです。

単純だからこそ、世間常識の線を平気で踏み越え何でもやってしまう恐ろしさ・・・。

オウム真理教附属医院を5年以上放置を許した社会にも反省すべき問題があるのではないか、と問題提起されていました。

 

オウム真理教附属医院。

ここで大学医学部卒の信徒が配置されて、研修医までしたらしい。

各種事件の時に、例えばサリン中毒になった新實智光さんを手当したりなど

なにかと問題のあった医院ですが、

「教団に違反行為した信徒を薬物で殺した」みたいなセンセーショナルな報道で何となく怖いイメージで見てしまうのですが、

私はそれ以上に、保健所の方の事務手続きを通してみたオウムの怖さ「単純」を知ることができたのと、

医師免許返上というのはこの当時前例のないものだったこと

医師免許さえ持っていればくいっぱぐれない、などとして医学部進学を希望する人たちが出るのも無理はないなあと改めて思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抽象的なことばかり言っているんですね

これは、1996(平成8)4月24日にようやく開かれた
初公判以降の教祖・麻原彰晃の言動に関する新聞記事を
読んだ中川智正さんの所感でした。

(「朝日新聞」1996年5月21日夕刊)

教祖の初公判の様子については、青沼陽一郎氏の『オウム裁判傍笑記』が
優れているように思います。

 

 

 

動画はこちらです。

 

youtu.be

 

青沼陽一郎氏は初公判の日の午後の部から傍聴していました。
それは、大手マスコミ関係者の中で午前の最初だけ見ればもういいとばかりに
法廷を後にする人があって、午後から券を譲ってもらって入ることが出来たのだということです。

それ以降、傍聴人が少なくなっていくオウム裁判に通った成果を著書にされたからです。

それと、降幡賢一氏の『オウム法廷』シリーズが古書でも入手しずらいというのもあります。オウム真理教の裁判がどのようなものであったのか、その概要をつかむのによいと思います。

降幡賢一氏『オウム法廷』では2上です。

 

 

午前中から始まった裁判は、午後に入っても延々と起訴状の朗読が続くだけでした。

一月前に行われた井上嘉浩さんの裁判でも地下鉄サリン事件の被害者名が次々読み上げられていったのですが、井上嘉浩は被告席で背筋を伸ばして聞いていたのに対して、

教祖は、いつのまにか昼寝に突入・・・。

傍聴席から分かるぐらいに寝ているのが丸わかりでした。

その初公判の最後に弁護側の要請で以下の話をしたと記録上ではなっていて、

それが新聞記事などとして拘置され裁判中の他のオウム真理教被告たちにも回覧されることとなったのです。

 

「私は、逮捕される前から、そして逮捕された後も、ひとつの心の状態で生きてきました。

それは、すべての魂に、絶対の審理によってのみ得ることのできる

絶対の自由、絶対の幸福、絶対の換気を得ていただきたい、そのお手伝いをしたいと思う心の働き、そして、その言葉の働きかけと行動、つまりマイトリー、聖慈愛の実践。

絶対の真理を知らない魂から生じる不自由、不幸、苦しみに対して、大きな悲しみを持ち、哀れみの心によって、それを絶対の真理により取り払ってあげようとする言葉と行動、つまりカルナ、聖哀れみの実践。

絶対の真理を実践している人たちに生じる絶対の自由、絶対の幸福、絶対の歓喜に対して、それをともに喜び賞賛する心、そしてその言葉の働きかけと行動、つまりムリター、聖賞賛の実践。

そして、今の私の心境ですが、これら三つの実践によって、私の身の上に生じるいかなる不自由、不幸、苦しみに対して、一切頓着しない心、つまりウペクシャー、聖無頓着の意識。

私が、今、お話できることは、以上です。」

 

これは麻原弁護団によると、「認否の留保である」とのことでした。

私は正直この教祖の言っていることがわからないし、

支離滅裂な宗教用語を並べ立てて何かを言おうとしたにすぎないと感じました。

もし信徒だったら、こんな人についていった自分を悔いるだろう・・・。

悔いた信徒さんもいたと思います。

おそらく麻原初公判の記事を読んだあとの中川智正さんの反応がどのようなものであったか、ご両親はじめ、現世、世間の中川さんを知る人たちは注視していたことでしょう。激しく悔やんでほしかったでしょう。

こんな教祖についていった自分の犯した罪を悔いて欲しい、気づいてほしいと思いながら。

中川さんは、教祖初公判と第二回の記事を、終始落ち着いて、丹念に目を通しただけでした。

 

朝日新聞に裁判の様子を取り上げられた中川さんは、この日は都庁爆破事件などに関することで、罪を認めて泣く様子も取り上げられたのですが(このことについては、中川さんを見ていく上で大切なので別にエントリーします)

自分の罪は認めているのに、なぜか教祖を恨んだり、教祖についていった自分を激しく悔いる様子がないのです。

このあたりが、他のオウム真理教の被告とは異なる部分ではないかと思うのです。

中川智正さんが裁判中に発した有名な言葉

私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」は、この後5年も経った、2001年の言葉でした。

中川智正さんを知る上では、麻原公判の初期は、自身も共犯として裁かれているのにも関わらず、非難も、怒りも、悔やみもしないで、淡々と新聞記事を丹念に読むだけだった。しかし罪は認めている。

常識的には理解できない。

少なくとも私は理解できません。

そんな状況で過ごしていたのでした。

それと対照的だったのが、林郁夫さん、井上嘉浩さんだったと言えます。

だからこそ、世間一般は、悔やんだり泣いたりする林郁夫さんらには注目したのではないかと思うのです。